3章1-29    2012.6.21

 テーマ:心の内にキリストを住まわせてくださいますように(17) 

 ■イエスの囚人となったパウロの働き(1-13)

  パウロは改めて自己紹介しています。私はあなたがた異邦人のためにイエスの囚人となっています。イエスに捕らわれた者です、と自己紹介しています。

  「囚人」の囚の字体は、人が囲いの中に入っているように、自由が無い状態です。パウロはイエスの捕虜になったことを自覚しています。パウロは、この様な心境をガラテヤの信徒への手紙でも宣べています。

  「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20) 

 わたしの体をキリストに明け渡し、迎え入れ、私の中に住んでいただくことです。イエスと一心同体です。命を差し出したことの表明です。これはパウロだけでなく、イエスを信じる私たちキリスト教信者一人一人みな「生きているには私でなく、キリストがわたしの内に生きている」と、旨を張って表明しなければなりません。 

パウロの使命は神からの任命によるもので、わたしは福音に「仕える者」となりましたと言います。この「仕える者」は、口語訳では「僕」です。僕とは主人の奴隷です。自分を捨てて、ただ主、神のために命を捧げ、ひたすら働く者です。 

 イエスは30歳になった頃から公の伝道を開始しました。そして間もなく弟子達に大切なことを話されました。命を捧げる使命があることを伝えました。それが次の御言葉です。 

「わたしについて来たい者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、私に従って来なさいマタイ16:24 

 「自分を捨てて」とは、私イエスの僕となってついて来なさい、ということです。 

僕とは主(イエス)だけに仕え、行動する者 心奪われた者として命も何もかも捧げる者です。 

 

 

 パウロは、イエスにお会いしていませんが、イエスの言葉を自分に話されたと受け止めました。ですから、「苦難は私にとり栄光、誉れ以外の何物でもありません」とはっきり言います。苦難も何もかも、神様からのものは私にとっては恵みです。 

 私たちも、パウロのようにイエスと出会った時=信仰を与えられたその時のことをしっかり整理し心にとどめることが大事と思います。そうでないと福音信仰が実生活に生かされません。他人事、第三者的なものとし、ただ聞くだけに終わってしまうことになりかねません。パウロは三回に渡り、人々の前で回心の様子を語りました。実際の日々の生活の中では、その何倍にもわたり、イエスから「パウロパウロ」と呼び掛けられた時のことを思い出し、その都度「今の私は、これでいいのか」と、自省(じせい)したと思います。 

■パウロの祈り―あなたがたの内にキリストが同居し根差しますように(14-21) 

パウロは、御父の前にひざまずいて祈りました。ひざまずく祈りは、ただ「体を低くする」だけでなく「心も低くして」静かな時間の中で、時間を気にせず切々と祈ることです。 

では、どの様な祈りをしたのでしょうか。「心の内にキリストを住まわせ、愛に根差す人としてください、と祈られました。心の中に四六時中キリストで満たすことです。一日の時間で、自分のことばかりあれこれと思うのでなく、キリストを迎え入れ、キリストと共に生活することです。 

我々の信仰生活は、その人その人の生活空間の中で、人と会ったり、一人で過ごしたりしますが、その様な中にあっても、実際のところ、何回キリストが登場するのかという事です。私の心は、お腹の中を覗く時間でなく、神を迎え神と共に過ごす時間がどれ程あるか、一日に何度キリストが私の心に登場するか、そのことが問われているのではないでしょうか。 

■むすびとして 

 心の中にキリストを住まわせ、キリストと共に生活しましょう。1回でも多くキリストにお会いできる生活をしましょう。