エフェソの信徒への手紙5:1-20  2020.7.5
                          小田弘平
 この手紙の著者は「コロサイの信徒への手紙」を書いた、パウロの忠実な弟子に相当する人物であるといわれます。パウロのエフェソの教会への愛は深く、この手紙はパウロの遺言でもあるように思われます。パウロはフェソの教会に、残忍な狼が入り、邪説で荒らされることを心配します。パウロが伝えたいことの中心は、あなた方は神の子であるから「神に倣って生きよ」ということです。神に倣うとはイエス・キリストに倣うことです。それゆえ人々は「互いに親切にし、憐れみの心をもって赦し合」い、愛によって生きよと勧めます。
 それだけではありません。わたしたちは神の子であれば、神の「相続人」です。しかし、無条件の相続人ではありません。「キリストと共に苦しむ」ことが条件です(ローマの信徒への手紙8章17節)。神の子として暗闇に生きていた人間が光の子として生き直した人物にオネシモという人物がいます。彼は貪欲な奴隷で主人の家からおそらく金品を盗み逃亡します。ところが逃亡中に、偶然パウロが語る福音を聞き、自分の犯した犯罪が帳消しになる道があることを知るのです。それはイエス・キリストの十字架を信ずる信仰だった。信仰者に作り変えられた彼は主人の元に帰り、きちんと謝罪をしようと決心をします。パウロはオネシモに手紙を託します。逃亡奴隷は主人によって殺されることを認められていた時代です。

 

 

主人の元に帰るオネシモは不安とおののきに満ちていたことでしょう。しかしオネシモは守られました。オネシモをキリストの光が照らし続けていたのです。手紙を読んだ主人フィレモンはオネシモを許し、同じ信仰の友として生きるのです。その証拠が「フィレモンへの手紙」です。もし主人であるフィレモンがオネシモを許さなかったら、この手紙は残らず、聖書にも含まれなかったことでしょう。
 逃亡奴隷オネシモはキリストの光に照らされる光の武具を身に着けていたのです。今は暗い時代であるという。しかし、いつまでも闇は続かない。闇が深いことは、夜明けが近いのです。どんなに現実が暗く悪い時代であっても、この悪い時代が永続することはありません。わたしたちには今がとても長く感じられますが、神にとっては「千年といえども御目には昨日が今日へと移る夜の一時(ひととき)にすぎません」(詩編90篇4節)。ここで言う「時」とはわたしたちが普通使っている時間の時ではなく、カイロスという決められた短い時期を指す言葉です。その時とはキリスト再臨の日であり、神の審判の時です。その時は近いのです。わたしたちは霊に満たされ、主に向かって心からの讃歌を歌いながら、光の武具を身に着けて与えられた持ち場を守り、その日を待ち望むのです。その様子を書いた作品に『天路歴程』(ジョン・バンヤン)があります。