コリントの信徒への手紙Ⅰ5:1-13             2017.4.23
テーマ:天国へ行くまで過越祭を祝おう(8)
▢コリントの街について
コリントは、人口約60万人・ギリシアの大都市で、西に海を控え、アジアとローマ地方との結ぶ交通の要所となり、パウロの時代には、富裕で繁華な商業都市であった。全市に淫風吹き荒れ、基督者すらもこの町に漂う空気に感化され、諺にみだらな享楽に耽る事を「コリントの如くす」と言われていたようである。人々は淫行をそれほど罪悪とも思わなかったであろう。基督者も自然にこの風俗に染まっていった者もあらわれた。しかし、聖霊は之に反抗し、このような者を除いた。これは、基督教会の特徴である。ここにパウロの厳しい姿勢が示されている。
▢教会を清潔に保つには
「あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」(6-8)
不品行な仲間は、一人だけだと言うかも知れないが、ごく一部の罪、悪により全体が汚れてしまう。「少しだから目をつぶってもよい」という考えは甘い。例え、一滴の血でも、バケツに滴り落ちれば、全体を赤く染める。ほんの少しのパン種は、パン全体を膨らませることが出来る。どんなに小さな癌細胞であっても、放置すれば時を得て臓器全体を癌細胞で覆い、命を奪う。
キリスト者は、「種なしパン」である。キリストにより体にはびこっていた罪のすべてを
取り除いていただき、今は、純潔と真実に満ちた新しい肉体に生れ変わった者である。
▢神の御業の印…燔祭の血
旧約時代、モーセに率いたイスラエルの民は、エジプト王・ファラオの執拗な災難に見舞われ、祖国帰還の途が塞がれた。こんな中、主がおもむろに登場し、御業により救われた。イスラエルの民は、神の命令により、各家に、小羊を殺したその血を門柱と鴨居に塗った。この血を見て、神は、その戸口を過越し、裁きはエジプト人の家々の初子だけに及んだ。以来、イスラエルは、この神の過越を記念し、毎年ニサンの月(ユダヤ教暦では1月、太陽暦では3-4月)の14日より21日まで各戸では、小羊を殺して食べ、全家よりパン種を完全に除き、種なしバンを食べてこの祝を守った。新約時代が到来し、燔祭の小羊がキリストに、小羊が流した血がイエスの十字架上の血に引き継がれたのであった。
イエスの十字架上で流された血は、新約時代の・現代の過越祭である。イエスの血は、救いの象徴であり、御恵そのものである。一方的に私たちの罪が赦されたことをしっかり心に刻みたい 。
▢まとめとして
 過越の祭は、イスラエルにとり、最も重大な祭典であり、この期間、イスラエルの人々の心は、神の救いを讃美し、種なしパンにより罪と穢(けがれ)を取り除き、屠られた小羊を焼いて食べる事で、その最も記念すべき日を祝した。基督者もこれと同じように、この世の終わりまで十字架の上に血を流されたキリストを思い、これによって私たちを救ってくださった神の御恵に感謝し、肉と穢の根源をその中から除き、聖潔な兄弟姉妹となってこの世で生活し続けたい。励まし合って生活し続けましょう。