コリントの信徒への手紙Ⅰ8:1-13            2017.5.28
テーマ:キリストはその兄弟のためにも死なれた
▢はじめに
 コリントを始めとし、当時の世界は、偶像崇拝が当たり前であつた。市民は神殿に犠牲を献げ、その献物の一部は祭司の物となり、他の一部は市民に返された。市民はこれを家に持帰り神殿に献げ、特に肉を貴び、親戚等を招き食事した。貧しい市民は、その肉の一部を市場に売った。祭司もまた、手にした肉を市場に売った。その結果、市場は、偶像に献げられた肉が売られていた。このような社会で生活するキリスト者は、招かれて捧げられた肉の食事を頂くことも、また、市場で肉を買うこともあつた。
 そのような社会にあって、コリント教会の中で、偶像の神殿から来たものを食べたら、偶像に犯されはしないかと、心配するする人もいた。一方、「偶像などない。肉を恐れる必要はない」と主張する人もいて、教会は混乱した。そこで、パウロはこれに対し福音の根本精神に立って、解決を示した。
▢1-3 愛は知識よりも重要
 たとえ知識があっても、愛が無ければ、この知識は有害である。なぜならその知識は、その人を誇らせるだけであり、人に益を与えない。自らこの問題について、知識があると、自任して満足している者は、知らなければならない最も重要な事柄(つまり、愛が無ければならない事)を知らない者である。しかしもしある人が、愛があって神を愛するならば、その人は神に知られて(選ばれて)いる。まことの知識は、神から、御自身を愛する者に与えられる。
▢4-9 弱い人が罪を犯さない配慮を
 肉を食べようが、野菜だけ食べようが、神には直接関係のない パウロは、食物は信仰とは関係のない、とはっきり言う 何をしても自由である。しかし気をつけなさい、(強い)あなた達のその自由が、弱い人たちにつまずきにでもなることがないように。偶像はにせものであり、偶像にいけにえを捧げる儀式は、意味を持たないが、そのような肉を食べることで一部の弱いキリスト者たちは、敏感な良心が傷つく。偶像に捧げられた肉を食べることが、弱いキリスト者たちの良心に背くなら、成熟した信者はそれを避けるべきである。
▢10-13 責任が伴うキリスト者の行動
 あなたが知識を持っているため、偶像の神殿で食事の席について、供え物の肉を食べているのを、知識を持たないある人が見たとすると、その人は弱いのに、その良心が「強め」られたと、思い込み、偶像に供えた肉を御利益でもあるように思って食べる、ということにならないであろうか。その弱い人はあなたの知識によって滅びる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。あなたがたは、知識に従って行動しているが、この行動によって、弱い者の良心を傷つける事は、同時にキリストの御心を傷つける。弱い人に対する罪だけでなく、キリストに対する罪となり、最も重い罪を犯すことになる 愛のない信仰が、恐ろしい罪におとしいれる。だから、食べ物がわたしの兄弟を罪に誘うならら、わたしは兄弟を罪に誘わないために、永遠に2度と肉を食べない。キリスト者の自由は責任を伴うのである。
▢まとめとして
 キリストは、一人ひとりの救いのために、生涯を、尊い命を捧げられた。神のこの大きな犠牲を知った時、私たちの生きる方向性は定まる。それは、神の御後に従順に従うこと。パウロは、自身の困難な伝道生活を支える栄養となる肉を食べないとさえ決意している。(13節)キリストはわたしたちのために命を失われたのだから、私たちも、パウロが今後肉を食べないと決意したように、自分の大切なものを失いながら、主の御後に従っていきたい。