コリントの信徒への手紙Ⅰ9:1-27            2017.6.11
テーマ: 福音のためならばどんなこともします(23)
▢1-2 わたしは使徒
 パウロは、まず、コリント教会の人々へ使徒としての挨拶をする。これまで使徒として自由に行動し、あなた方を得たし、あなた方は「わたしが使徒」であることの証人である。それほどまでに私のすべてをあなた方に、全身全霊で捧げてきた。
何故、パウロは、ここまで使徒職にこだわって弁明するのか。それは、パウロに対する使徒職としての批判があった。パウロが最初に聖書に登場したのは、キリスト教の迫害者としてであった。「サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。」(言行録8:3 ) また、イエスの12弟子の一人でもなく、イエスから直接「伝道せよ」と派遣された者でもない。その者が伝道するとは……の批判があった。パウロ自身、自分が使徒であることを弁明する必要をひしひしと感じていた。
▢3-12 使徒の権利
 この機会に、わたしに批判的な人たちへ、わたし個人について説明した。食事する権利、他の人々と同じようにごく一般的な生活をする権利、わたしとバルナバにも生活費を稼ぐ仕事をする権利が、ないだろうか? もちろん有るに決まっている。しかし、わたしはこの権利を利用しない。何故なら、福音の妨げになってはいけない、と慎み、すべての権利を留め、実際には、耐えに耐えている。福音を述べ伝えることが、何より大切と考え、全てに優先した。 
▢13-18 わたしは権利を利用しない 
 神殿で働く人たちは、神殿から下がる物を食べる。「穀物の献げ物についての指示は次のとおりである。アロンの子らはそれを祭壇で主の御前にささげ、穀物の献げ物の上に置かれたオリーブ油のかかった上等の小麦粉一つかみと乳香の全部を取り、しるしとして祭壇で燃やして主を宥める香りとする。残りの分はアロンとその子らが食べる。」(レビ6:7-9) 同じようにイエスは、福音をのべ伝える人は、福音により生活を維持するよう語った。「働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。」(マタイ10:10-11)しかしわたしは、この権利を一切利用したことはない。利用しないことが誇りである。わたしが福音を告げ知らしたとしても、それは誇りでも何でもない。何故なら、そうせずにはいられないからである。わたしの考えでそうするのであれば、報酬を受けるでしょう。でも実際には違う。神から強いられ行うなら、それは委ねられている務めです。わたしの報酬とは、与えられた権利を用いないこと、福音を述べる時、無報酬で述べることである。
▢19-23 わたしの目的―福音のため
 福音を述べ伝えるわたしは、誰に対しても自由な者であるが、多くの人に福音を伝えるため、すべての人の奴隷となった。福音のためならば、どんなことでする。何故なら、皆さんと一緒にわたしも福音をいただきたいからだ。自分を無くし、奴隷となって、他人に仕えたいのだ。実際、その後のパウロは、58年頃、裁判を受けるためローマに連れて行かれ、60年頃処刑(殉教)されたと言われ、その後の人生は、福音のために人々のために命を投げ出した。
▢24-27 目的達成のために
 競技場の競技で賞を受けるのは1人だけであり、あなた方もその1人になれるよう走りなさい。わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制する。自分の身体を打ち叩き、服従させる。というのも、他人に宣教しておきながら自分自身が失格者にならないためなのだ。
▢まとめとして
1>福音宣教に徹する使徒職であるわたしの報酬は、すべての人を得ること。福音のためならば、どんなことでもする。自分自身の自由を放

 棄し、人びとの奴隷となり、人々のために尽くす。これこそが本当の自由であり、そのために、日々節制し、使徒にふさわしい生活をしな

 ければならない。 
2>キリスト者は、ある意味、皆が伝道者である。御言葉を語り、伝えるという本来の伝道があるが、もう一つ、キリスト者であるならば、

 誰にでもできる伝道がある。日々の生活態度、姿そのものが伝道であって、他人への愛に満ちた言葉使い、優しい振る舞い、心配り、声掛

 け、微笑み返し等など。これらを日々の生活の中でさり気なく行うことが、我々平信徒の伝道である。