コリントの信徒への手紙Ⅱ11:1-33            2017.12.10

 

テーマ:わたしの内にあるキリストの真実にかけて言う(10)

 

 10章に引続き、コリントの信者に偽使徒に対する意見を述べ、同時にパウロの誇りを示す。

 

パウロは、コリントの信者がいとおしい余り、大切に語ってきた。その為に、コリントの信者たちが、偽信徒の悪巧みにはめられ、純粋な信仰から離れてしまうのではないかと心配した。「ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」(3)その思いが高まり、今ここで、あの大使徒たちにいささかも劣ってはいない…何事においてもペテロ、ヤコブ、ヨハネ等の大使徒に劣らないと信じている…とはっきり言い放った。更に、「たとえ、弁舌はつたなくても、知識はそうでない。わたしは、事ごとに、いろいろの場合に、あなたがたに対してそれを明らかにした」(6)、と自身の立場を重ねて主張した。

 

コリントに滞在した時、不自由な生活をした。しかし、その時は、だれの厄介にもならなかった。わたしの不自由は、皆、マケドニヤから来た兄弟たちが補ってくれたのだから。こうして、わたしはあらゆることで自分があなた達の重荷にならないようにしていた。これからもそのつもりである。(9)パウロは天幕製造により生活の不足を補った。こうまでして、コリントの教会のために考え、その権威を主張しなかったのである。これを知ったコリントの信徒は、本当は、大いに恥じなければならなかった。パウロには、人に譲れぬ誇りがあった。それは、わたしの内にあるキリストの真実があった。この誇は、アカイア地方で封じられるようなことは、決してない、と確信していた。「わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。」(10) 

 

パウロの中にキリストが生き、また語る。キリストの誠実が、パウロの中に働いていた。パウロの言葉は、キリストの御言葉の様であり、一点の偽りも無かった。この絶対的誠実を以て、パウロはどんな理由があっても、この誇りがアカイア地方で妨げられない事を誓っている。これのみが彼の誇りであったので、生命を賭けて守ろうとした。

 

「わたしはこの(使徒の)権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。」(コリⅠ 9:15)。パウロは、徹底的に純粋なキリストの使徒の立場を全うしたい、そのことが誇りであり、心の支えであった。

 

■まとめとして

 

①パウロの伝道活動は、主の御旨、御子心に従って為してきたこと、キリストが、私の内に生きておられる、生きておられるのはもはや私でない、この思いからであった。常に主の御旨に従い歩んでこられた使徒の姿に、敬服するのみである。この世で恐れるものは何もない、あるとすれば、主の御旨から外れることだけであろう。私たちも、常に、神に向き合う生活を送りたい、そのためにも、何度も祈る信仰生活を目指したい。

 

②私たちは、パウロのような徹底した信仰による生き方は出来ていない。しかし少なくとも、イエスが愛された小さな人、病人、障害を抱えた人、孤独な人、貧しい人、このような人を愛する眼差しの人、低い姿勢の人であることを目指したい。また、このような人たちを愛する人であるか否か、この判断により本物の使徒であるかを見ていきたい。