コリントの信徒への手紙Ⅱ12:1-21               2018.1.14 
テーマ:私の恵みはあなたに十分である(9)
   パウロの労苦が数えきれないほど多かったことは、前の11章で詳細に記されている。
この様な数々の労苦に囲まれて生活して来たにも拘らず、常に他人や教会のことを心配し続けられた。どうしてそのようなことが出来るのだろうか。それは、人生の目標を、自分自身の個人的なことを目的とせず、神様に捧げ尽くすこととしたからであろう。健康な体を維持すること、経済的に恵まれ不自由なく生活すること等、この世の一般的な人々が目標とすることが、人生の目標でなった。目標は、全て神様のために捧げることであった。
 パウロは、次々と襲う多くの労苦も、神の御意志と前向きに考えた。自身の傲慢さを抑えるために与えられたものと考えた。躓きは、思い上がる心を押さえるブレーキ役とし、謙虚に考えた。
 このパウロの前向きな姿勢に接し、私自身、反省させられた。昨年12月、私は恒例の年中行事としてクリスマス講演会を開催した。年間を通し最も大きな行事のため、準備にも力が入り、「一人でも多くの参加者が集まるように」と、参加者数を気にして当日を迎えた。と言うのも、例年になく、力を入れて準備したからである。しかし、努力の割に来場者が少なく、正直落胆した。
  今日の12章の御言葉により、私は反省を促がされた。大勢の人に来てほしいという私の願いが実現したら、きっと傲慢な人間になっていたであろう。自分の努力でそれが実現した、と自分を過信し、神を頼らない人間となっていたであろう。神は傲慢になりやすい私の性格を知っていたのであろう。努力しても、簡単に結果が得られないことは、私の現在の信仰からして妥当な結果であったと思う。もし、やすやすと願いが叶うなら、傲慢な私は、いい気になって神様から離れたかもしれない。そのことを神は御存じで、「わたしの恵みはあなたに十分である」とおっしゃられたのである。
  ヨブは、「主」が主体であり、自分は受け身の立場であることを忘れない人であった。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:21)正しい人と言われる所以であろう。主の御心、御力で為され、主の御名を崇める。信者にとり神の存在はそれほど絶対的なものである。この主の御名を讃える者になって、主の恵みとはどういうものか、受け止めることが出来るのであろう。そう考えれば、私のクリスマス講演会は、初めから終わりまで、主が運営されたと受け止められる。
  「主は」来場者を集め、「主は」一人ひとりを祝福され、「主は」御言葉を与える。私たちは、主のために呼び出され、仕える者です。私たちは、最初から最後まで主の御名を崇め、主の栄光を讃えるために呼び出された使徒と思う。 
  パウロは数々の迫害を乗り越えられた。神が、キリストが、グッと身近に臨まれ、守ってくださっていることを実感したからこそ迫害に耐えられた。迫害が強くなればなる程、神の恵みを強く感じられる。迫害と神の臨在は表裏一帯である。それだからパウロは「わたしは弱いときにこそ強いからであす。」(10)と言えたのである。

🔲まとめとして
・瞬きの詩人・水野源三さんの詩選集「我が恵み、汝に足れり」がある。水野源三さんは、 話すことが出来ず、歩けず、常に寝たきりの生活でした。全面介助の人でした。家族の支援の有難さを知り、感謝の生活を送りました。姿勢の低い水野さんは、小さな恵みも敏感に感じ、感謝された。恵に敏感な人は、感謝の多い人であり、腰が低く謙遜な人である。そして常に神様を仰ぎ、神様の恵みの枠の中で、神様の御顔が見える場所の中で生活している人である。欲深い人は、小さな恵は、恵みの内に入らず恵みと感じられない。足元の恵みに気が付かず生活している人である。
 2018年の最初の礼拝で「わたしの恵みはあなたに十分である」(9)の御言葉を学ぶことが出来たことを感謝します。本年も、この御言葉を心に刻み、皆さんと共に支え合いながら信仰生活を送りたいと願います。