コリントの信徒への手紙Ⅱ2:1-7               2017.9.24
テーマ:神の御前でキリストに結ばれ語る(17)
  コリントの人は、私・パウロの訪問、手紙により、喜び、悲しみ両方の気持ちを抱いた人が多い。本気で人を救いたいのなら、きれいごとばかり言っていられない。厳しい事、耳の痛い事等も伝えなければならない。厳しい言葉は、当初、相手を苦しめ悩まし悲しませ、場合によってはそれまでの信頼関係を失う。しかし何としても救いたい、理解していただきたい、その時は自然と厳しく迫るようになる。それを恐れ、踏み込んだ発言をしない人間関係が多い。しかし、このような関係は上辺だけのお付き合いで終わり、空しい。
  パウロのコリントの人々の思いは、深い愛に満ちていた。何としても分派争いを止め、唯一の神の愛に留まり、神、キリストの愛の中で平安に暮らすよう願った。命を投げ出してコリントの人々を心配し、愛した。伝道は、体当り、命がけであり、生半可な気持ちではできない。場合によっては、死をも恐れない覚悟が必要となる。 
  上辺だけの交流は、喜びも悲しみもない。深い交わりがあってこそ、喜び悲しみを共にすることが出来る。信仰は、命を賭け、てただ純粋に神様を信じることではないだろうか。
  エペソにおいてもトロアスにおいても、またマケドニヤにおいても、神は、パウロ等を福音を伝える使徒として用いられ、到る処にキリストの福音の香りを漂わせた。 
 わたし達は、救われる者にも、滅びゆく者にも、神にささげられるためのキリストのよい香りである。神の言葉を取次ぐ人は、少なくとも、教会や集会の中で、聴く人との間に、信頼関係がなければならず、この信頼関係の中で、人間が語る言葉の中に、神の言葉を聴きとるのであろう。そして、神の言葉を信じ受入れて、神から赦された実感が生じる。
 赦された人は、その応答として神に命を捧げることで、キリストの香りが醸し出るのであろう。その人自身は、よい香りを放っているという意識はまたくなく、周りの人がその香りに気が付く。「人がわたしにつながっており、わたしもその人に繋がっていれば、その人は豊に実を結ぶ」(ヨハネによる福音書15:5)の様に、キリストに繋がって、良い香りを放つことが出来る。 
 神の道を進む人は、その人自身意識しなくとも、神に捧げる良い香りを周囲に漂わせる人となる。
🔲まとめとして
 私たちは、神に属する者として、誠実な心を忘れず、自分の考えでなく、神の御言葉を取次ぐ者でありたい。それが可能となれば、気が付かなくてもキリストの香りを周囲に放つ人になっているであろう。