コロサイの信徒への手紙3:1-17 2020.9.6
小田弘平
 3章(17節まで)でパウロが熱誠を込めて伝えようとしていることは何か。
 冒頭から4節までの間に「キリスト」という言葉を4回も用いて「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と言う。
 あなたがたはキリストと共に、新しい生き方を始めているのだ。私たちの命はキリストと共に、神に中に隠されている。私たちの真の命は、地上のものだけを見ている者には見ることができない。私たちは罪にまみれた存在であるが、キリストによってそのままの包み込んでくださっている。挫折した恥多き、そのままの姿で、キリストを着て、上にあるものを見上げながら生きよ。
 地上のものに目がくらんで貪欲に生きていたときのことを思い出してみよう。平気でうそをついて生きていただろう。地上に生きている私たちは「うそも方便」などと言って、他人に対してうそをつくではないか。しかしよく考えて見ると、うそをつく最大の相手は自分自身だ。うそをつくとは自分自身を偽ることに他ならない。自分の良心をも踏みにじり、神から一時逃避をしている。
 ではどうしたらよいのか。詩編15篇にキーワードがある。「主を畏れる」ことである。主を畏れることを自分の生の土台にしよう。人間の原点は主を畏れることである。原点に立つと、わたしを着なさいとの静かな御声が聞こえてくる。キリストと出会

 

 

った今は、気でうそをつく「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て」、キリストという新しい人を「着る」ことだ。それは一回きりの営みではない。私たちはこの地上で生かされている間は、私たちを創造された創造主の似姿に従ってキリストに従って「新しくされ続け」なければならない。
コロサイの友よ、「互いに忍び合い、責めることがあっても、赦し合いなさい。」この言葉は、コロサイのフィレモンとオネシモの心をびんびん打った。主人フィレモンの下から逃亡した奴隷オネシモがパウロの語るキリストの福音に接して、主を畏れる「新しい人間」に作り変えられ、主人の下に帰った。パウロからキリストの信仰を与えられていたフィレモンはオネシモを解放し、自由な信仰の兄弟として共にキリストの福音伝道に生涯をかける。パウロはこのような実例をあげて、互いに教え合い、感謝して神を讃えよと手紙に書き続ける。
当時コロサイの集会はパウロに誠実な信徒がいるにも関わらず、コロサイの教会がもろもろの諸霊力によって襲われていた。パウロからすればこれらの諸勢力は何の価値もない、肉の欲望を満足させるだけなのだ。人間の力に頼ろうとする、はかない一時的な力にすぎない価値のないものだ。イザヤは言う。「人間に頼るのをやめよ。鼻で息しているだけの者に、どこに彼の値打ちがあるのか」(イザヤ書2章22節)。パウロはコロサイの人々の覚醒を願ってこの手紙を書いた。