3:18-4:18    2012.9.13

                   西澤正文
テーマ:ひたすら祈りなさい。(2)
 パウロはコロサイ信徒の手紙の書き出しと結びの挨拶を除きますと、はじめと終わりで祈っています。如何にパウロがコロサイの街に住む信者に心を配られていたかが伝わってきます。
 「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」(2)とあります。キリスト者が元気でない時は、祈りが十分でない場合が多いです。「祈りは信者の霊の呼吸である」と聞いたことがあります。信者にとり祈りがいかに大切なものか分かります。祈りのない生活を続ければ信仰の生命は必然的に滅びます。しっかり祈りができている時は、神の守りを確信できます。そのような時は、自然に活力が出ます。キリスト者にとり祈りは命、活力の源です。また、落ち着いて生活することができます。
パウロは、ローマへ向かう船旅で、命を失うような悪天候に見舞われました。天使を通し神の御声が届いた場面があります。「わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜私のそばに立って、こういわれました。『パウロ恐れるな、……神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」(使途言行録27:23-25 P268)
天使を通し、神の御声を耳にしたパウロは、元気、勇気百倍の人となりました。早速船内の乗組員全員に向い、まるで船長のように「ですから皆さん、元気を出しなさい。……私に告げられたことはその通りになります。」と訴えることが出来ました。
また、別のところで、パウロとシラスはフィリピで捕らわれ、投獄されていた真夜中に、神に祈りを捧げ、賛美の歌を歌いました。(使徒言行録16:25 P246)「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。」真夜中、獄中で讃美の歌を歌っていたのです。
 

 


 このことは何を示しているのでしょうか。「サウロ、サウロ、何故私を迫害するのか」パウロはダマスコに向かう迫害の最中に、復活されたイエスに声をかけられ、お目にかかったのです。イエスにお目にかかりキリスト信者に新生したのです。
イエスが「キリスト」(救い主)であると信じる信仰は、キリストと出会わなければ、生まれません。出会いがその人を決定づけます。救い主・キリストとの出会いがあれば、何処へ行っても信仰はなくなりません。キリストのもの、キリストに所属する=クリスチャンになるからです。生きているのは私でなく、キリストがわたしの内に生きているのです。(ガラテヤ2:20P345)
パウロは神に仕えました。どんな時も神に拝みました。御心のままにしてくださいと祈りました。すると 神の応答がありました。御声を聴くことができたということです。
我々に置き換えて考えたいです。私たちは、神、イエスと出会えるのでしょうか。
できると思います。心が揺さぶられる程感激する「聖書の御言葉」、あるいは、胸が熱くなる程感動を覚える「聖書の御言葉」に、何度も、何度も接することです。さらに、ひたすら祈る時です。祈りの中で、初めに、心の中に潜む苦しみや心配を吐きだすと、落ち着きます。その後、静かに神の応答の御声を聴く時間です。自ずと静聴の時間になります。そうしますと、心のタンスに詰め込んだ聖書の御言葉が自ずと示される時があります。それが私たちにとり神、イエスとの出会いと言っていいと思います。祈りの時だけでなく、自然の中を散策する時、風の流れが聖霊に感じ、ゆったりした気分の中で讃美を歌たり、御言葉が浮かんで来る時、神、イエスに出会っている、と実感できます。
むすびとして
 パウロのように、信仰生活の中でイエスにお会いできるよう祈りの時間を持ち、その中で聖書の御言葉に触れるようひたすら励みましょう。