テサロニケの信徒への手紙Ⅰ2:1-20  2020.10.4
                   小田弘平 
 テサロニケでは「力強く、聖霊に支えられ確信をもって伝道した(1章5節)という。しかし、なぜパウロは2章において「そちら(テサロニケ)に行ったことは無駄ではありませんでした」という控えめな言葉を使ったのだろうか。
 パウロたちはフィリピで迫害を受け、伝道活動の場を奪われた。しかしこの経験はパウロたちには伝道活動には迫害が伴うものであることを身をもって体験した。その後、パウロたちはテサロニケにおいても、同様の迫害を受けた。(使徒言行録17章)ユダヤ人たちがキリストの福音集団をいかに恐れていたからである。
 このようにパウロは福音伝道は危険と困難が常に伴うことを身を持って体験した。しかし、これはパウロたちが伝道の任務に耐え得るかを神によって吟味されたことだという。吟味とは「内容・能力などを詳しく調べ確かめること」(国語辞典)である。つまりパウロたちが神の言葉を語るにふさわしい人物であるかを徹底的に調べられた。このような体験によってパウロは勇気づけられ神の福音を語り続けることができた。これは「無駄」とは言わず、恩恵だった。
 信仰の自由が確立されている今日でも、伝道活動は困難を伴う。現代では物質的な豊かさが幸福のものさしとさえ考えられ、伝道活動には困難が伴う。信仰は目に見えないものを求める行為であり、世の流れに逆行する営みでもある。内村鑑三は言う。「恩恵は直ちに来るものではない。困難を通して来るものである。困難は恩恵(めぐみ)を身に呼ぶた

 

 

めの中間物である。燃料なくして火がないように、困難がなくして信仰も歓喜(よろこび)もない。」
パウロは「人間の誉を求めない」ともいう。この言葉は信仰の本質を物語る。ここで言う「人間の誉」とは富、財産、名誉、地位、実績など世間の人々が求めたがるものだ。
それどころか、パウロは友のために自分の命を捨てることを厭わなかった。
また彼は誰にも負担をかけまいとして、天幕づくりで、夜も昼も働きながら(昼も夜もではない!)伝道した。彼はテサロニケの「一人一人に呼びかけ」て、神の御心にそって歩むよに勧めた。彼は神が一人ひとりを招いておられると呼びかける。聞く人が自らの心の扉を自らの手で開くことを期待している。
ヨハネの黙示録3章20節に「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中にはいってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。」
聞く耳を持つのみが聞くという姿勢はパウロの真意ではない。パウロにとって、テサロニケの信徒たちは希望であり喜びであり、誇るべき冠であった。
しかし聖書にはパウロにとって冠とされるテサロニケの人物の名は記されていない。パウロの周辺には大勢の同労者がいたことを示している。名もなきパウロの同労者たちの姿を想像したい。聖書を読むとは聖書の行間の中から、名もなき同労者たちを発見することだ。