テサロニケの信徒への手紙Ⅰ3:1-13                                                                                 2020.10.11
テーマ:あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、私たちは生きていると言える(8)
 パウロはテサロニケの人達のことが心配で、テモテに様子を見て来るよう送り出しました。テモテの報告を受け、テサロニケの人達が「主にしっかりと結ばれているなら、今、私たちは生きている!といえる」と安心した気持ちを表しました。私たちの伝道の苦労が報われたと実感できるからです。
 「主に結ばれていること」がいかに大切なことか、パウロは、ガラテヤの信徒の手紙で、次のように話しています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きていおられる。」(2:20) 自分の体でありながら、生きているのが私でなくキリスト。何故なら「キリストが私の中に生きている」と言っています。これほどまでに言えるのはどういうことでしょうか。その前の節で「わたしはキリストと共に十字架につけられている」(同2:19)とまで言っています。主に結ばれるとは、自分の命はイエスに預けたということです。
    私は、太平洋戦争に負けた直後の日本に多くのクリスチャンが多く誕生した話をお聞きしました。帰国した日本軍兵士の内、多くの兵士は「戦争は何であったのか」整理ができず大変苦しみました。多くの戦友が命を落とした中で自分だけ生き延びて帰り、果たしてそれでいいのか…戦友に申し訳ない思いを抱えたままの兵士が多くいたとお聞きしました。
    罪を犯した自責の念に駆られ、苦しみ抜いた末にクリスチャンになった人が数多くいた様です。敗戦後間もない日本国内には、共産党支持者か、キリスト教信者か、そのどちらかと思われるくらい、多くの人がいたとお聞きしました。

 

 

    信仰の大先輩U様から、弟は、戦争が終わっても自分自身気持ちの整理が付かず発狂した話をお聞きした。また戦地から帰国した若い兵士の中で、自ら命を絶った兵士が何人もいた話もお聞きしました。
 キリスト教に出会った若者の中には、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きていおられる。」、このパウロの言葉がスーと心の中に入った人もいたことでしょう。キリスト教無しでは生きていけない心境で、藁をもつかむ気持ちでキリスト教にすがり付いたと思います。主に結ばれ、キリストを迎い入れ、平安な心のよりどころを発見した心境であったと思います。
 私は、昭和50年を過ぎて信仰を与えられました。そして、戦争体験をされた多くのクリスチャンに出会いましたが、「罪人の頭」の自覚を持つ方が多くおられ、驚きました。戦争体験をされたクリスチャンは、今生かされているのはイエスが私に代わって死んでくださったお陰と考えています。イエスの背後に戦友の死が、相手国の戦死者が重なっていたと思えてなりません。
▢むすびにかえて
  戦争体験のある人だけ出なく、クリスチャンは皆、戦争体験の様な罪意識がなくてはなりません。何故なら、イエスの犠牲により今の私があるからです。自分の体は自分のものでない。自分のためにどれだけイエスが代価を払ってくださったか。神に対し、自分の体を捧げていかなければ…。私が、今、生かされている命の根底にイエスの死があることを、キリスト教に出会って知ることが出来ました。感謝です。その恵みを生活の中で自分なりに少しでも証ししたいと願っています。