テサロニケの信徒への手紙Ⅰ4:1-18                                                               2020.10.18  西澤正文
テーマ:聖なる者となる(3)
 パウロは聖なる者になることを強く意識された人と思います。パウロが色々な教会信徒へ送られた手紙の冒頭の挨拶でそのことが現れています。「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たちへ」(ローマの信徒への手紙1:7)、「コリントにある神の教会へ、…キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ1:2)、その他コリントの信徒への手紙Ⅱ1:1、フィリピの信徒への手紙1:1にも書かれています。
 このテサロニケ14:3には「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」と、端的に言っています。この神の御心は警告であり、「聖なる者になることを拒むのは、神を拒むことになります。何故なら神は聖だか。」(同4:8)とも言っています。
 改めて「聖」とはどんな意味だろうか、と考えてみますとなかなかハッキリした内容が浮かんできません。聖について調べてみますと、「神の絶対的な尊厳を表す。神の属性、神の特徴、性質。被造物との隔たり、距離を意味する。人減には近づくことが出来ない距離。」この様な内容が記されています。
 このことを読んでみてヨブが、神から一括された出来事が浮かんできます。「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ。」(ヨブ記38:11)友人3人とのやり取りの中で、あれやこれや自分の意見を語り終えたヨブ

 

 

に、神は嵐に中で厳しい口調で叱責されました。「知識もないのに,言葉を重ねて 神の経綸を暗くするとは。… わたしはお前に尋ねる。わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたとき お前はどこにいたのか。」(同38:2-4) この神の叱責の言葉により、ヨブは神を畏れ、己の存在がいかに小さなものかを示され、神と自分の関係に立ち返ることが出来ました。
 主日礼拝の場所は、「聖所」です。神様を礼拝所にお迎えする場所は、何処でも聖地です。よく「聖地イスラエル」と言われますが、世界でイスラエルだけが聖地ではありません。神が臨まれる所は、地球上何処でも聖地です。ただ、神様をお迎えするには、それなりの準備が必要です。礼拝開始5分前になったら、黙想する時間が必要です。この世の雑念を心から排除し、神に繋がるため無心になりイエスの十字架上の姿を思い描きながら静かに過ごすことが大切です。「主よ、お話ください。僕は聞いております。」(サムエル記上3:8) 主が若いサムエルに言わせたこの言葉は、礼拝前の私達一人一人に、このように心を静め、神を迎えるための準備を怠らないように言われた言葉でもあると思います。
■むすびにかえて 
聖なる人は、神と結びつく人です。神に結びつく人は、神のみ前に独り進み出て、祈ります。「聖」は隔たりを意味しますので、聖なる神の御前に立つために、この世に生活しながらも、この世にどっぷりつかりイエスの姿が見えなくならないよう細心の注意に心掛けましょう。