テサロニケの信徒への手紙Ⅱ3:1-18

               2020.11.15 西澤正文
 第二の手紙は、第一の手紙を送った後、直ぐに送られました。と言うのもキリストはもう来てしまったと言いふらし人々を慌てさせる人がいたからです。それを良い事に仕事をせず毎日ぶらぶらするだけの怠け者もいました。その様なデマに惑わされて怠惰な生活を送ることを強く戒める必要があたからです。
 パウロはテサロニケ訪問中のことを述懐し、警告しています。「私たちがあなた方のところで生活したように自分の生活のために人を頼らず自立生活をしましたが、それと言うのもあなたがたに生活の見本を示すためであり、口でも『働きたくないものは食べるな』とも言ってきました」と。
更に重ねて「今、そのような者たちに向い、私たちははっきり言います 「自分で働いてパンを食べよ。また、常に兄弟に対し良いことをするよう努めよ」 もし私たちの言うことに従わない者がいたら、その者たちと関わりを持たないようにしなさい。本人が気付いて反省するためです」と。しかしパウロは、あくまでも敵と見なさずあなたがたの兄弟であることを忘れないようにと付け加えています。
この最後の言葉にパウロのテサロニケ教会の信者への深い愛を感じてなりません。自分本位の怠惰な生活をする人達と敵対せず、この様な人達にも愛の心を忘れないようにしなさい ……パウロの深く、広い愛が滲み出ているように思えてなりません。
▢テサロニケ第1・第2を学び終えて
 パウロの姿を思い描きながらパウロと共にその場(テサロニケ)に居るつもりで学びたいと思います。そのためには、当時のテサロニケの街の特徴(例えば地理や人口等)を頭に入れ、生活環境を自分なりにイメージすることが大切と考えます。
 パウロ伝道の真骨頂は、伝道は血みどろであり、迫害の連続(使徒言行録17:13次の訪問地ベレ

 

 

訪問地ベレアへもテサロニケからやって来て迫害に遭う)であったと言うことです。伝道中、パウロは神、キリスト・イエスの関係を常に忘れませんでした。伝道は、神が主体、パウロは神から用いられ旅を続けたに過ぎない、この関係をひと時も忘れませんでした。ですから繰り返し艱難に遭われても、その都度乗り切ることが出来ました。
イエスから「自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい」(マルコ8:34) この教えを自分の語られた言葉としてしっかり受け止めたパウロは、「生きているのはもはや私ではありません キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と、はっきりキリストとの関係を言っています。
 実際、パウロは自分自身の伝道について伝えます。「キリストがわに、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。」(ロマ15:18-19) 「神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。」(使徒言行録14:27) 
 私がああした、こうしたと報告していない 神が自分を用いてどのような事を為さったかを報告しています。そういう言葉の中にパウロはいつも神を仰ぎ、神を待ち望み、神と共に伝道していたのです。パウロは手紙の冒頭で「キリスト・イエスの僕」であると紹介し、またあるところで「キリスト・イエスの囚人」と言っています。
 私たちも実際生活の中でキリストは生きておられることが分かるような生活をしなければなりません。今日一日、キリストに何度お会いしたか、常に意識して生活していきたいと思います。