テトスへの手紙1:1-16              2021.3.7 
                   小田弘平
 パウロが伝道したクレタの教会は複雑な問題があり、指導者を悩ませていた。この手紙はパウロ主義者の一人が指導者テトスに書いたものであるが、公の性格を持っている。パウロの教会あての書簡はまず神への感謝から始まるのだが、この書簡はいきなりテトスへの具体的な指示から始まっている。緊急を要する事情があったことを物語っている。
クレタの教会では真理に背を向ける者たちが教会を撹乱していた。これは教会自体を崩壊する危険性すらある。そこで手紙は直接本論に入ったのだろう。福音の真理を破壊する者を公衆の面前ではっきり弾劾しなければならない。具体例がある。パウロが書いた「ガラテヤの信徒への手紙」の中で、福音の真理に背く行動していたペテロに対し、パウロは皆の前で「あなたは間違っている」と避難した。公衆の面前で非難することにはわたしたちは躊躇しがちであるが、パウロは勇気を持った間違いを指摘した。この結果、ユダヤ教キリスト派はユダヤ教から独立してキリスト教となり、世界宗教になったのである。
 ところでこの書簡では1章15節で「信じない者にはその知性も良心も汚れている」ことを語っている。「知性が汚れる」とは物事の本質が見えなくなることをいう。

 

 

水俣の新日本窒素という会社の技術者たちは有毒な物質を含んだ排水を薄めて水俣湾に排出した。その結果、魚介類を通じて人間の中枢神経に入り、水俣病が発生する。薄めて排出しても有毒物質を排水することには変わりない。これは技術者たちの知性が曇り、汚れていたといえる。福島原発の汚染水問題も、知性と良心が問われる問題である。この世界は神が造られた被造物である。神が造られた被造物を人間が汚し壊してはならない。神を恐れないことは信仰の世界にとどまらない。現実の世界を汚染させることになる。聖書は信仰者だけのものではない。被造物であるこの自然、地球そして人間の問題を語っている。
信仰を与えられるとはどういうことであろうか。確かに信仰を与えられる者は神に選ばれたものである。しかし神は選ばれていない者の神でもある。選ばれた者つまり召された者は、内村鑑三によれば、神の国のためとくに任務を与えられて働く労役者であるという。ではどのような人が選ばれるのだろうか。パウロは「世の無学な者、無に等しい者、身分の卑しい者、見下げられている者」であり、「だれひとり神の前で誇ることがないためである」(コリントの信徒への手紙Ⅰ Ⅰ章27、28節)という。我らも労役者の一人になりたい。