テモテへの手紙Ⅰ1:1-20    ( 2020.11.29)

                     西澤 正文
 パウロは言っています。「イエスはわたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださった」(12)と。「見なす」とは、実際には忠実でないが敢えて忠実な者として見る、忠実な者として扱うことです。ここにイエスのパウロに対する信頼、期待する気持が込められています。そのことは、パウロが迫害のためダマスコに向かう途中、「サウロ、サウロ」と名前を呼び掛けられ回心した出来事で感じました。
 以下、ペトロ、服に触れる女、ザアカイの四人が心を入れ替えることのできたイエスとの出会いを紹介します。
➀ペトロ 三度イエスを知らないと言ってイエスを裏切ったペトロが、イエスの僕としての生涯を全うしていくことが出来たのは何故でしょうか イエスがじっと慈しみの眼差しをもってペトロを見詰めてくださったからではないでしょうか。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(ルカ22:61-62) 
②イエスの服に触れる女
12年間も出血が続いていた女…多くの医者にかかって財産のすべてを使い果たしてもますます悪化していました。その時、イエスのことをお聞きしたこの女が、一か八かの懸けに出たのです。群衆の中に紛れ込みました。穢れた女であることがバレたら律法違反で取り返しのつかない事態になることは百も承知でした。本当なら、汚らわしい、感染する、と見られ外出は禁物でした。「すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。『この方の服に触れさえすれば治してもらえる』と思ったからであ

 

 

 る。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』そのとき、彼女は治った。」(マタイ9:20-22)
③ザアカイ
 ローマ帝国の手下として民衆から税を取り立てる仕事に就いたザアカイは、家来を雇い、規定以上の税を取り立て私腹を肥やしていたため、人々から疎んじられ、友達はいませんでした。「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。……イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』」(ルカ19:1-5) 
 この人達は、皆、心がひっくり返ってしまったのです。方向転換したのです。その起点はイエスの眼差し、個人の名前の呼び掛けでした。イエスの愛に溢れた眼差しを見た時、パウロ、ペトロ、女、ザアカイは皆、自分というものが消えました。わたしを信頼してくださったイエスが心の中に充満し、自分という意識がなくなった状態に陥りました。何としても答えていかなければならないという信仰が起こったのです。
■むすびとして
 「わたしは罪人である」これが信仰の出発点です。その自覚に至らせるのは愛に満ちたキリストの眼差しです。いつでも、どこでも、一人も漏らさずどんな人にも、天から、愛溢れる眼差しで見詰め、私のもとに来なさいと招いておられるイエス、そのことを来る朝毎に祈りの中で感謝したいと思います。