テモテへの手紙Ⅰ2:1-3:1(2020.12.6)
                     小田弘平 
 この手紙は「キリスト・イエスの使徒となったパウロから信仰による子テモテへ」宛の個人書簡であるが、公の性格をもつ公開書簡である。
この書簡の中に、「神は『すべての人々が救われ』て真理を知るようになることを望んでおられます」という注目すべき言葉がある。テモテの師であるパウロ自身が「すべての人が救われる」ことを強調している。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」という。(コリントの信徒への手紙Ⅱ5章17節)。
 だれでも「キリストと結ばれる」ことによって救われる。さらに「神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた」とさえいう。身分や働きにはまったく関係ない。
 ところが、テモテへの手紙には「王たちやすべての高官のためにも(執り成しの)祈りをささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」とある。この手紙をよむ信徒たちには、この言葉は辛い勧めだった。なぜならローマ皇帝クラウディウスが紀元49年から50年に出したユダヤ人追放の勅令によって、伝道自体が困難になり、さらにパウロも殉教したことなどが思い出され、「王たちやすべての高官」たちのために執り成しの祈りをささげることは身を切るよ

 

 

 

 

うに辛いことであった。にもかかわらず、その執り成しの祈りをささげることを求めている。なぜか。「主(キリスト・イエス)の名を呼び求める者はだれでも救われる」からである。自分たちを迫害する王や高官たちも救われなければならない。これがキリストの福音である。救われない人に例外はない。
さらにローマ帝国の支配下では、キリスト信徒たちが信仰を維持するためにはキリスト信徒たちはローマ帝国に敵対するものではないという態度を外部に示す必要があり、信徒の信仰生活は「常に信心と品位を保」つことに重きがおかれるようになる。
しかし、この「信心と品位を保」つことは、本来キリストに注目すべき視線を、外部にも目を配って信仰生活を維持することになる。キリストに向かうべき視線が、世間体を気にしながら、信仰生活を送ることになる。テモテが監督をしているというエフェソの教会は信仰そのものよりも、教会維持あるいは、教会制度の確立に重点がおかれ、保守的な守りの態勢に入りつつあることを意味する。これではパウロの祈りは消滅するのではないか。
そうではなかった。神の力は静かに働いていた。巨大なローマ帝国自体が滅んだのだ。このことは何を教えるか。歴史は神の国をめざしてゆっくりと確実に進んでいる。それゆえ歴史を生きる私たちの羅針盤は、キリストにしっかり繋がることである。