ヘブライ人への手紙13章     2021.7.18 

西澤 正文

テーマ:指導者たちの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見習いなさい。

「兄弟として旅人をもてなしなさい」(1) 宿泊施設の不完全であった当時、旅人の接待、おもてなしは殊に大切な愛の行為と見なされました。

それだけでなく当時、キリスト者は、世の人々から、特に、ユダヤ人より迫害せられていたため、キリスト者の旅人を家庭に招き入れ、宿を提供すことは、自分の身にも危険が多かった。従って、この愛の行為を避けようとする者が多かった。

  従って、旅人の接待を実行することは、神が最も喜ぶ行為であった。マタイ25章に登場する人たちの教訓を思い起させます。

  無教会は、清水教会等が所属する「日本基督教団」や清水聖書教会が所属する「日本同盟キリスト教団」と言う立派な組織はありません。教会と言う建物もありません。ただ、聖書だけを拠り所とし、ただ純粋にイエス・キリストを信じる一人の平信徒の集まりです。

   従って、ここで言われている「旅人をもてなす」ことは、無教会の場合、当時と大変似た状況です。素朴であり、素人であり、個人的家庭的です。

無教会は、遠くから来られる伝道者を個人の家庭に招くこと特別でなく、普通の事のように行われました。何月何日「〇〇さんが、私の家に来ることになりました。都合が良ければ来ませんか」と連絡が入ります。そして都合のつく人は、その家庭に集まります。そこで、クリスチャン同士で素朴な交わりを持ちました。

  伝道者に宿を提供し、近くに住む信徒と小さな礼拝を持ち、その後色々なキリスト教の話に花を咲かせました。礼拝の時の聖書の話だけでなく、伝道される人が身近な人と感じられ、文字だけでなく、肌で信仰を感じることができました。苦労や貧しい生活をしながらも信仰が生活の大黒柱となり、たとえこの世的に貧しくとも、質素に真面目な生活の中でイエスの光を輝かせていることを肌で感じる機会となりました。伝道者をわが家から送り出した後は、正直、肉体的な疲れを感じます。

 

 

 

 

 

しかし、それ以上に大きな恵、クリスチャン同士の集りの中で生まれる一種独特の信頼、希望、言いようのない居心地の良さ、空気が生まれていることを肌で感じました。これぞ真に聖霊に包まれていた、と信じました。我が家に、私の心に、土産を置いて帰られたことを感じました。

「指導者たちの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見習いなさい。」(7)

    当時のキリスト者の中には、一生涯立派な人生を送って後、殉教された者が多くあり、彼らの指導者たちの中にもそれが多かった。この人たちの生涯、特に死に際の信仰にならうべきであるとの教えです。

 私の所属する清水聖書集会の元代表が、死の直前、神を信頼する心情を綴った言葉をベッドのある部屋に貼り、心の支えとしました。この言葉は、御自身の信仰が凝縮された言葉と受け止めました。「主に委ぬ。一切を主が負い給う。『全ての重荷を我に委ねよ 自力にて此れを負わんとすること勿れ』 力は主のみ在り」

   最後の礼拝から3週間後、天に召されました。命を削り、ギリギリまで礼拝に出席されました。最後の礼拝となった日、会場の2階に向かうために階段を上らなければなりません。途中、頭だけ出し、しばらく動きませんでした。呼吸を整え一休みし、そして上り切りました。如何に礼拝を大切にされているのか、その姿を見るだけで伝わって来ます。生涯の終わりの姿を集会の兄弟姉妹に立派に証されました。

   長男の方が、告別式に参列された方へ、父の記念にと配られました。ある集会員の自宅の居間に貼ってあるのを拝見しました。御言葉に励まされているなと思いました。

   信仰により生活し、信仰を抱いて天国に帰られた元代表、一人の信仰者の姿を拝見できた動かすことのできない事実、これこそ残された私たちの杖となり、御国へ向かう道しるべとなりました。