ヘブライ人への手紙4:14-5:14  021.5.16

                    西澤 正文

テーマ:大祭司であり人間であられたイエスは、人間としての弱さを身にまとい、無知な人、迷う人を思いやることができる(2)

 祭司は神と人との仲介者であり、人々に代わり神に礼拝と供え物を捧げ、祭儀を行う職にありました。祭司の最高位に位置する大祭司は、年に一度だけ、神殿幕屋の至聖所に入ることを許されました。この時、自分自身と民の罪をために捧げる血を携えて行きます。

「大祭司は皆、人々の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える務めに任命されています。この大祭司は、自分も弱さを身に負っているので、無知な人、で迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のための供え物を献げねばなりません。また、この光栄ある務めは、誰も自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。」(1-4)

 この大祭司は、人間イエスと重なります。イエスは、私たちと同じ姿になり人間として33年間、地上生活を送られました。人間的欲望を知り、苦しみ、悲しみ、不安等全て体験し、御自身試練に遭われました。そしてこの世の最期、御自身を捧げられ、血を流され息を引き取られました。血の捧げものがご自身が十字架上で流された血でした。

 神に身を委ねられる人は、神に対し絶対的に従う受け身の立場に立つ人で、それほど神は偉大な 

 

 

方であり、同時に、自分(人間)が如何に弱い者であることを強く自覚します。パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ロマ12:15)と伝えます。同情することができる人、思いやることのできる人は、キリスト者として理想的な人で、自分をさておいて人のことを先に考える人で、良きサマリア人がそうでした。他人の気持、立場を理解することが、隣人愛の始まりです その人は柔らかな心の持ち主で、純粋で、謙虚な人です。人の気持ちが理解できない人は、つまるところ人を愛せない人と言えます。

 日常生活を通し、自分が如何にいい加減で要領よく立ち回り、言い訳を並べ正当化する人間なのか、神、イエス・キリストを仰ぎながら自分なりにまじめに生活しようと思えば思うほど、自分の弱さを覚えざるを得ません。

 自分の弱さを自覚している人は、神、キリスト・イエスの身近で生活している人です。自分の本当の姿、飾らないありのままの等身大の姿を見詰めることができます。そこには必ず弱さを示してくれます。同時に神の存在をも示されます。 

 弱さを知れば知るほど、神、イエス・キリストが迫ってきます。それはキリスト信者としての喜びであり、慰め、励ましとなります。「だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。……なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。なぜなら私は弱いときこそ強いからです」(コリントⅡ12:9b、10b)