ペトロの手紙Ⅰ 2:1-25         2022.2.27

西澤正文

テーマ:ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。(23)

 信仰の故、ローマから迫害を受けエルサレムの地から離れ、旅人となり、仮住まいの身となったあなたがたは、キリストに仕える召し使いのように、尊敬の心を持って、主人に従いなさい。

 召し使いは主人に仕え、命令されたいろいろな務め、言い付けを果たすのが仕事ですから、たとえ、不当な苦しみを受けても、神のみ旨と受け止め、悲しみ、苦しみをこらえるなら、それは神に喜ばれます。イエスの生涯は真にそれでした。困った人、病気を抱えた人、孤独な人、貧しい人たちを救い続けましたが、最後は相手にされず、見捨てられました。あなたがたが召されたのは、実にその為なのです。

 なぜなら、キリストもあなた方のために苦しみを受け、あなたがたが、イエスの歩いた後に従って進むよう模範を残されたからです。キリストは一度も罪を犯したことがなく、その口は何の偽りも見出すことが出来ませんでした。ののしられても、苦しめられても、すべてを受け入れ無抵抗を貫かれました。それは全てを神様にお委ねしたからです。

 イエスが捕らえられて後、侮辱の限りを受けました。「兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、『ユダヤ人の王、万歳』と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。」(マルコ15:16-20) この間、

 

 

 

イエスは23節の言葉通り無抵抗を続けました。まともに相手にし、発言しても正直な返事は見込まれない。そのような人には、無言を貫くことが最善です。「負けるが勝ち」の精神です。

 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われたのです。私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの受けた傷により、私たちは癒されました。

 私たちも、普段の生活の中で、割に合わない言葉、おかしいなと思うような言葉を受けるようなことがあっても、「神様が見ておられる、分かってくださっておられる」と、心を切り替え相手にせず、身を引く勇気、潔さを身に付けましょう。不合理な場面に出くわしても、イエスの姿、御言葉を思い出し、イエスを見習えば気持ちを切りかえられます。慰めを得ることが出来ます。それに耐えるなら、これこそ神の御心に適うのです

 パウロの言葉が私たちを励ましてくださいます。「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(コリントⅡ12:9-10)

▢結びにかえて 

 神は公平に裁かれます。公平に裁かれる時は再臨の時です。霊的な監視カメラで全ての人を大空から眺めておられます。再臨は、キリスト者にとり、励みであり、目標です。この世での生活振り全てが神の前で評価される時だからです。