ペトロの手紙Ⅰ 5:1-14      2022.3.20

テーマ:謙遜な者には恵みをお与えになる(5b)

 若い人たちは、長老に倣い謙遜を身に着けなさい。謙遜という服を着なさい、全身をすっぽりと覆ってしまいなさい。肌身離さず常に持ち続けなさい。謙遜はそれほど大事ですということです。

 箴言に次の御言葉があります。「主は不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜る」(3:34) 神は高ぶる者を初めから相手にせず、眼中にありません。その反対に、謙遜な者、へりくだる者には恵みを与えられます。

 謙遜とはどういう事を言うのでしょうか? 少し考えてみたいと思います。

・自分が主に頼らなければならないことを感謝の思いを持ち、認めること。 

・自分が常に主の支えを必要としている者であることを知ること。

・自分の才能や能力は、全て神から与えられた賜物であることを知る人。それは弱さ,おく病,恐れを表すものではなく,真の力の源がどこにあるかを自分が知っている人。

 謙遜でありながら恐れを知らない者となることができます。謙遜でありながら勇敢な者となることができます。純粋に神により頼むことのできる人だからです。

 イエス・キリストは最も偉大な謙遜の模範者です。イエスは、弟子たちを指導していた時、御自身の力が御父に頼ることで得られるものであることを常に認めておられました。イエスはこう語っておられます。

「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(ヨハネによる福音書5:30)

 

 

 

「神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。主の前に遜りなさい。そうすれば主があなた方を高めてくださいます。」(ヤコブの手紙4:6,10) 

 今回のペトロの手紙5:6では「神の力強いみ手の下で自分を低くしなさい。」とあります。

 低くするとは、どういうことを言うのでしょうか? 二つあると思います。ひとつは、神中心の生活であり、神を迎え入れ神と一緒に住むとこです。「生きているのは私でない。キリストがわたしになかに生きている」状態です。神様は、このような時、どう考えるのでしょうか。神様だったら…と、先ず神の御心を訪ねる生活です。もう一つは、自分のことを二の次と考え、「自分が、自分が」の気持ちを抑え、他人を尊重する事だと思います。

▢結びにかえて

 自分自身を低くし相手を高くすれば、この世では一向に陽が当たらず、負けてばかりいることになります。しかしそもそも、人生は勝ち負けを決める場ではありません。よく「負けるが勝ち」と言いますが、イエスがそうでした。イエスは、十字架上で召され三日後に、予告通り見事復活なさいました。召されて後の復活こそ、負けるが勝ちの見本です。

私達、イエス・キリストを信じる者にとり、常に神の前に立って行動しているか、意識します。神の御心を訪ね行動しようとしています。隣人を愛するとは、隣人を敬い、大切にします。自分を小さくして生活すれば、間違いないように思います。その人が天国に帰れば、価値ある者として迎えられる、そう信じます。この世と天国では価値観が正反対、逆転しています。常に神の前に立ち、神様のみ旨を伺いつつ生活していきたいと思います。