マタイによる福音書1章           2023.1.15

小田弘平

 私が初めて聖書を手にしたとき、新約聖書の冒頭にあるマタイによる福音書を開いた時、1章1節から17節までは無味乾燥な人名の羅列があり唖然とした記憶がある。それゆえ17節までは飛ばし18節から読んだ記憶がある。私は本を読むときは丁寧に読む習慣を持っていたので、聖書をこのような粗雑な読み方でいいのかと疑問に思った。しかし、読んでいて意味がよくわからない箇所書こそ、大切な場所であること最近知った。マタイによる福音書1章もそうだ。

ここはイエス・キリストの系図で始まる。ユダヤ民族は律法を重んじる民族である。律法を守らない人を異邦人としてみなし、彼らを罪人として扱う伝統を持っているという。

ところがこの福音書の著者はイエス・キリストの系図に、本来なら隠しておきたい罪人を明記する。実はこれが神の福音の本質なのだ。イエス・キリストが語る神の福音は罪人とされる人間こそ神が求めておられる人であるという宣言である。

 ユダヤ人からみれば、タマル、ラハブ、ルツは罪人であり、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」に至っては、隠しておきたいことであるにもかかわらず、明記している。また

 

 

列挙される国王も善い王もあれば悪い王の名前もある。ヒゼキヤのような名君もいれば偶像崇拝を強いる悪い王の名も出ている。イエス・キリストを産んだ祖先には悪人もいたのだ。悪の王から必ずしも悪しき子を生まない。善き王から悪しき子の生まれることがある。これは王家だけのことではない。

 私たちの家系においてもそうである。信仰を与えられている私たちの先祖にも悪しき祖先がいたはずである。私がこの世に存在するまでに与えられた先祖の全総数は、1000年前から数えると、一億人以上になる。人類全体がそうなのだ。

そこで神は御自分が創造した人類を救おうと神はアブラハムの末裔にイエス・キリストを起こされたのだ。しかもイエス・キリストが生まれるまでの14代は旧約聖書には記録がない。おそらく庶民であろう。

 貧しい大工職の庶民の家に長男が生まれ、「自分の民を罪から救う」イエスだった。1章1節を読むと、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」とある。つまりマタイによる福音書の使命はイエス・キリストこそ神の子として人類の罪を、すべての人の罪を贖うために神から送られたと証言するのである。なんと嬉しいことではないか。