マタイによる福音書12章1~32節      2023.5.21

西澤 正文

テーマ:イエス、手の萎えた人をいやす(9-14)

 イエスが会堂に入るとそこに手の萎えた人がいました。律法学者たちは、イエスが律法を犯すかどうか、犯したら訴えようと注目していた。と言うのも、律法学者やパリサイ人達は、イエスの名声が日に日に上がることに対して嫉妬心が膨らみ、イエスを訴えるため厳しい目線でチェックしていたのでした。

 当時、安息日であっても人命に関する非常の場合は良いとされていた。しかし、生命に別条がない場合はたとえ病気であっても治してはいけないことになっていた。であれば、手の萎えた人は命に別条ないので治してはいけないことになります。

 そこでイエスに「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と難問を突き付けました。イエスは即答せず、反対に問いを出された。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げて

 

 

やらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするは許されている。」イエスの質問とそのイエスの考えを述べたのです。

 イエスは、たとえ安息日でもよいことはしてよいではないか。羊を助けていいくらいなら人の病気を治してよいではないか、と一般的な常識として目の前の手の萎えた人を癒された。

 パリサイ人達は、たとえ良いことでもモーセの十戒を犯すことは許さない考えに固執しました。専門宗教家のパリサイ人と人間常識人のイエスの対立となりました。パリサイ人達は、モーセ律法を守ろうとしているものの、実のところはモーセ律法の精神を蹂躙しています。パリサイ人の姿は、只の律法の奴隷です。一方のイエスは、宗教の健全性を示され、徹頭徹尾律法の素人、一般人でした。一般人に徹する姿こそイエスの命があります。弱き者、小さき者、貧しき者、哀しむ者と共に歩むイエスの姿があります。