マタイによる福音書6章19節から34節       2023.3.5

  小田弘平

 この世界に生きている私たちが求めるものは何だろうか。ある程度の財産は欲しい。そして社会的地位や名誉なども得たいと思う。親たちはわが子を少しでも進学に有利な学校に入れたいと必死になっている。将来安定した職業に就き豊な生活をさせたいのだ。

 中国の古典である『孟子』に「恒産なければ、恒心なし」という言葉がある。一定の財産がなければ道徳心が持ち続けられないという意味である。古代の中国の人々も富の問題で苦労していたことがわかる。聖書の「富」とは財産だけを指すのではない。地位、学歴、能力、経歴なども含まれる。その人の名刺を見れば何を富としているかがわかる。わたしたちは富を天ではなくこの世に置いている。

 

 しかし、イエスは富を地上ではなく、天に積めと言われる。イエスが言われる富とは何だろう。ズバリ、イエスは言われる。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われる。そうすればあなたたちが心配しているこの世で生活に必要なものは「加えて与えられる」と言われている。生活に必要なものはオプションとして与えられると言われる。明日あなたに必要なものは神が用意される。「明日のことまで思い悩むな。明日は明日自ら思い悩む」。つまり私たちは今日という日、明日の生活がどうなるのかと思い悩んではならない。明日のことは神が責任を持ってくださるというのだ。明日は神の責任領域である。だから、私に与えられた今日一日を神と隣人のために用いたい。

 ここに復活の希望を持って生きる者の喜びがある。何という楽天主義であろうか。これが神の前に豊かになる道だ。