マルコによる福音書10章1節~31節       2021.11.7

 小田弘平

 「人は何を求めて生きるのか」真面目に働き、誠実に生き、父母に孝行する模範的な人がいた。しかし、彼の心に生きている喜びはなかった。人は何のために生きているのかと問い続けていた。会堂に通い、律法学者の語る教えに耳を傾けていたが、心は満たされなかった。

 ある日、イエスの噂を聞いた。彼はイエスならば自分の問いに答えてくれると思った。ちょうどイエスはイエスの福音を伝えるために旅に出ようとしていたところだった。彼はこの機会を逃してはならないと息せき切ってイエスに尋ねた。

「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか。」

 彼は「わたしに従いなさい」という言葉をいただけると期待していた。ところがイエスの答えは彼にとっては平凡な答えだった。すべて子供の時から守ってきた掟そのものだった。彼は落胆する。イエスは彼の最大の問題点は富を持っていることだと見抜かれた。

 イエスは、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。それから私に従いなさい」と言われた。

 

 

 

男にとって富は自分が生涯をかけて獲得したものだ。これを失うとは自分を失うことになる。彼は悲しみながら立ち去った。

わたしたちはここから何を学ぶか。自分が生涯を賭して獲得した財産、地位、名誉すべて捨てて、文字通り裸一貫になってイエスに従えと言われる。それが「永遠の命を受け継ぐ道である」と言われる。富と永遠の命の両方を持つことはできないと言われるのだ。

「だれも、二人の主人に使えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富に仕えることはできない。」(マタイによる福音書6章24節)。わたしたちは富を持って神の国に入ることはできないのだ。なぜか。「あなたの富があるところに、あなたの心がある」からである(同6章21節)。これは厳粛な事実である。逆に富どころか、他人に言えないような生涯であっても、イエスの十字架によって算盤で言う「ご破産にして」もらって永遠の命に与り神の国に入ることができる。

 

あなたはどこに宝を積んでいるか、あなたに欠けているものはないかと、今もイエスはわたしたちに問いかけておられる。