マルコによる福音書10:32~52      2021.11.14

西澤 正文

テーマ:先生、目が見えるようになりたいのです(51)

 イエスは弟子たちを従え、足先はエルサレムに向き、徐々に近づいています。イエスの気持ちも徐々に高揚していたのでしょう。そしてエルサレムからわずか20Km離れたエリコの町に着きました。

 人口の多いエリコの町を後にいエルサレムへ足を延ばそうとした時、盲人であり、かつ物乞いのバルティマイと言う名の人に出合いました。私たちにとり盲人が物乞いをしながら生活を続けて生きるという事に対し、如何につらい生活を余儀なくされているのか、想像することはできません。全盲の人がその日の食べ物を確保することは並大抵の苦労ではありません。想像できなく苦しみと格闘する毎日でしょう。このバルティマイが道端に座っていました。この人はイエスがどういう御方か知っていました。人々の話をお聞きしてイエスと言う御方が、どんな病も治してしまう御力を持つと言う噂が、盲人・バルティマイの耳に入っていたのです。盲人にとり耳だけが頼りですので人々の噂には人一倍敏感でした。

 バルティマイは、いきなり「ダビデの子イエスよ」と叫んだのです。一般の群集は、イエスを単にナザレのイエスと見ていました。しかし、盲人バルティマイは、直感によりイエスをメシア・救主と信じ、ダビデの子と叫びました。「ダビデの子イエスよ」の言葉の後に続き「わたしを憐れんでください」と叫びました。その言葉はバルティマイの心の底からの真実な心から溢れ出たのです。人は、苦難の中にいる時、平穏無事の時よりもはるかに救い主を慕い求めますが、バルティマイが今真にその心境だったのです。

 

 

 

 この叫びが、多くの人が彼を黙らせようと叱りました。しかし、それを跳ねのけ、益々叫び続けました。そして、更に気持ちが高揚し、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」イエスのところに駆け寄りました。

 イエスは正面からバルティマイと向き合い、「なにをしてほしいのか」と問えば、バルティマイは、単刀直入に一言、「先生、目が見えるようになりたいのです」と。このやり取りは大事です。神に向かい祈る時、心から願い事を打ち明ける姿勢そのものだからです。イエスは、盲人から聞かなくても願い事は分かっておられます。しかし、正面から向き合い、しかも本人の口から願いをお聞きします。盲人は、飾らずありのままの願い事を伝えました。

 私たちの祈りも、このような純粋なありのままの気持ちをイエスの打ち明ける祈りが大切に思います。益々イエスに迫る姿は感動を覚えます。バルティマイは命を賭けたのです。それだから、多くの人の静止を突破できたのです。

 最後に、イエスは盲人をねぎらいました。「あなたの信仰があなたを救った」と。イエスには、盲人・バツティマイの態度、意志は並大抵でないことが伝わって来ました。その証拠に、目が見えるようになったバルティマイが「なお道を進まれるイエスに従った」とあります。

▢結びにかえて

 

 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイ6:7-8)と言われています。ですから、単刀直入に、心から願い求めれば、神は必ず受け止めてくださる、私たちはバルティマイのなりふり構わず、純粋に求める熱い姿勢を学びたいと思います。