マルコによる福音書11:1-33   2021.11.21

西澤 正文

テーマ:祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい(24)

 11章よりイエスの受難の一週間が始まります。受難週第三日の朝、昨日まで葉が繁っていた無花果がイエスに呪われて(14)、急に枯れてしまいました。イエスには、自然界に影響を及ぼす特別な力が備わっていたこと、また、これが父なる神に対する信仰から出でたことが明かになりました。

 神を信じ、神は必ずこれを為されると信じて疑わないなら、偉大な力が生じる。力の秘訣はこの信仰です。信仰は一見不可能に見えることをも可能にします。イエスはこの大いなる真理を「山を移す」と、譬をもって弟子たちに次のように教えられました。「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」(23) 

疑わないで信じることが必要な事、また、信じ切ることは一つの戦いであることが示されています。どんなに信仰深い人でも、信じる気持ちの裏側にはほんの些細であろうと疑いの気持が存在します。イエスは常に、疑うことを止め、あなたの信仰をはっきりしなさい、神を信じなさい、と言っておられます。

 また続いてイエスは、「祈り求めるものは既に得られたと信じなさい」(24)と言われています。このイエスの言葉は、信仰の極意であり核心であり、我々の祈りの最終目的ではないでしょうか。主の御名によって求めるならば、神は必ずこれを成し

 

 

 

てくださると信じ切っている場合、神はこれを無視することはしません。祈りの秘訣はここにあります。その反対に、疑いつつ神に求めものは与えられないということです。

祈りは、神の前に独り進み出る時です。神を信頼する時です。その時は、自分の願い事を一方的に求めるのではなく、同時に、自分の罪を認め赦していただく時でもあります。更にまた、神の愛によって人の罪を赦そうとする心が生れてきます。このように神に信頼し全ての人に愛の心を持って接する時、天の父は私たちの罪を赦してくださいます。

祈る時は、仲たがいしている人とわだかまりを無くすこと、これなしに神の前で、私の罪を赦してくださいと祈ることはできません。余りにも自分本位の一方的な祈りだからです。イエスは、祭壇に供え物を捧げようとした時、次のように言っています。「兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したらな、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を捧げなさい」(マタイ5:23―24)

神の前に進み出て1対1で祈る時、人とわだかまりがあるならそれを清算することを求めています。

▢まとめとして

 

 「祈り求めるものは既に得られたと信じなさい」の言葉を素直に信じたいです。祈る前、黙想の時間を確保できますように。その中で、自分の罪を示され、赦しを願い、また人との交わりを思い起し、罪を示されたなら罪を赦していただき、清められた状態で、祈ることができますようにと願うのみです