マルコによる福音書14:27- 72           2022.1.23

                     西澤正文

テーマ: ペトロはイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した。(72)

前回では、「イエスがこれから裏切をもくろむユダを念頭に置き『わたしを裏切ろうとしている』」と言われ、弟子たち「まさかわたしのことでは」代わる代わる言い始めた場面がありました。弟子たちは、イエスの言葉を聞き、まさか私のことを言っているのではと顧みました。この「まさかわたしのことでは」は、何を示しているのでしょうか…。

謙虚で低い姿勢を示すその一方で、イエスを信頼し従ってきたことに自信が持てない姿を示しています。それは、他の弟子たちの誰もが「わたしもユダになりうる」と思ったので口に出た言葉であり、ある面、弟子たちの正直な気持ちの表れと思います。

いよいよイエスが十字架に就く直前のゲッセマネでの祈りの時を迎えました。 

イエスの最期の、最期の祈りです。死(=イエスが神から授かったこの世に生まれた使命)を今、素直に受け入れるのか、拒むのかの瀬戸際に立たされました。窮地に追いやられた神の子ひとり子の命を賭けた祈りです。

イエスは信頼を寄せたペトロ、ヤコブ、ヨハネに声を掛け、祈りの場へ同行させました。命懸けの祈りの最中、この弟子達が眠り続けた姿と言い、イエスが逮捕されるや、弟子達全員が即座に逃げ去った態度と言い、言い訳のできない失態を演じました。 

 一人もイエスと共に死のうとはませんでした。彼らは逃げ去り、これにより彼らの心が如何に弱く穢れているかを示すことになりました。こうして、弟子たちは欠点をさらけ出しましたが、それ

 

 

がかえって彼らにとり、長い目で見ればよかったのです。

 何故なら、復活されたイエスにお会いし、回心できたからです。使徒言行録1章では、 多くの仲間と共に熱心に祈られ、聖霊の降るのを待たれた様子が伝えられています。

 12弟子の代表格ペトロは、皆、見捨てて逃げ出したものの逮捕されたイエスが心配となり、一人、大祭司の中庭にしのび入り、下役たちと火にあたっていました。そしてイエスが「今夜、鶏が二度鳴く前に、三度私を知らないという」予告通りの事が起きました。

ペトロは、鶏が2度鳴く前、3度否定したイエスの予告に気が付き、感極まり、いきなり泣き出しました。

▢結びとして

 過ぎ越しの食事中、イエスが「わたしを裏切ろうとしている者がいる」と言われた時、ユダを除く弟子たちが「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めましたが、14章を学び終えた今、このことが本当の事となりました。「皆、イエスを見捨てて逃げ出した」(50) 弟子のリーダー格のペトロはイエスの予告通り、見事「イエスを知らない」(70)と言って泣き出しました。

 これは悲観すべきことではありません。弟子たちは皆、「わたしの事では」と不安に感じたことは、完全でない本当の姿を自覚していたのです。これは大切です。自分を振り返る素直さ、柔軟な心があったからです。本当の自分が分かっているから、復活したイエスにお目に掛かった時、ここで完全に回心することができ、本物の信仰が与えられたのです。

弟子たちの「まさか私の事では」と自分自身の心の内側を顧みる事の出来る素直な心を持って生活したいと思います。