マルコによる福音書16:1-20         2022.2.13

西澤 正文

 「安息日が終わる」時刻は、土曜日の日没・夕方です。イエスを慕い求め、暗い中、僅かな時間を使って香料を求めに出掛け手に入れました。そして翌日曜日、日が出るとすぐに墓に行きました。しかし、召され横たわっているイエスと彼女たちの間には大きな石が転がっているのを承知していました。「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見詰めていた」(15:47)とありますように、イエスが召され、イエスの遺体を引き取られたヨセフの後に付いて墓に行ったからです。

 ですから、墓に行っても大きな石の存在が気掛りで「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(3)と心配でした。

 「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」(4)目の前は、既に石が転がしてありました。

 この出来事は何を私たちに示しているのでしょうか? イエスを迎えることが出来るのは、自分の戸を開け、一歩外へ出なければ、体験できないという事ではないでしょうか。実際に、婦人達は墓へ行ったことで「石が転がしてあった」ことが体験できたのです。

 イエスの復活は、人間の側で理解できたり納得できたりするものではありません。弟子たちは、病気を治していただいた一介の女性であるマリアの報告を聞いても信じませんでした。不信仰でした。心が頑なでした。

 私達は、現在、2千年前の復活の出来事を中々信じられないのは、当然かもしれません。

 ただ、復活の教理を知っていること、復活を信じるとは、違うという事です。信じるとは、人間の考えを超えたものを信ずることです。

 イエスが生まれる時も天使から誕生を伝えられ、復活にも天使の声が聞かれました。次元の違う出来

 

 

事です。受け入れるかどうかの違いだけです。 

 てんかんの子を持つ父が、イエスに「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と申し出ました。それをお聞きしたイエスが「『できれば』というのか。信じる者には何でもできる」と伝えますと、父が答えました。「私は信じます。信仰のないわたしをお助けください」 すると子供は、元気になりました。この出来事を通し、全存在をイエスに委ね、信じ切る世界が信仰の世界であると示されているように思います。 

 信仰は、イエスの福音の声をお聴きしていくしかありません。聖書は天からの、御告げからの世界です。私達の次元と違った世界からの御告です。頭で理解しようとしてもできるものではありません。信仰は理解ではなく受入れるかどうか、そのように思います。てんかんの父のように「不信仰のわたしをお助けください」これしかないと思います。

■むすびとして

 おわりに、復活したイエスに直接お会いした弟子に向かい「全世界に行って、すべて造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と伝えられました。また、イエスは「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と伝え、天に帰りました。(使徒言行録1:8) このイエスの言葉は、地上で話されたイエスの最期の言葉です。いわば弟子達への遺言です。弟子たちは、聖霊が注がれる日が来るのを祈って待ちました。そして聖霊をいただき実行しました。 

 私達も聖霊が注がれ、聖霊により心から「アーメン」と言って復活を完全に受け入れられるよう、日々祈っていきましょう。なぜならイエスの復活の出来事は、神の子・イエスのこの世に誕生した出来事、死んだ出来事と同じように、キリスト教の重大な出来事であり、信仰の核心だからです。