マルコによる福音書6:1-56     2021.9.19

西澤 正文

テーマ: なお喜んで(イエスの話す教えに)耳を傾けていた(20)

 ヘロデ王は、イエスの名前が日を追うごとに耳にすることが多くなり、ひょっとしてイエスと言う人物は、以前、ヘロデ自身が殺した洗礼者ヨハネが生き返ったと思いました。

洗礼者ヨハネは真正直に生きた人で悪いことは悪いと、相手を選ばず、どんな人にもはっきり言う人でした。

   ヘロデ王は、自分の兄弟の妻ヘロディアと結婚しました。しかし、ヨハネから面と向かって「この結婚は律法に違反している」とズバリ言われました。それは「兄弟の妻を犯してはならない。兄弟を辱めることになるからである。」(レビ記18:16)に当たるからです。妻へロディアはこのヨハネの言葉を恨んでいました。そんなある日、ヨハネを殺す絶好のチャンスがやって来ました。ヘロデの誕生日を祝う席で、上機嫌になったその勢いで、娘に「ほしいものは何でもやるよ」と約束したのです。妻へロディアは、娘に「ヨハネの首を」と言わせました。ヘロデ王は知り合いの有力者を招いた手前、その約束を覆せず、実行してしまいました。

   ヘロデは、「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」(20)のです。神を信頼する事とは、他のものにより頼むことを止める事です。神と両方によ

 

 

り頼むことはできません。神か、世か、どちらか一つです。

    この世は、聖い人を受け入れることはできません。従って、神の御旨を行おうとする者は、この世では疎まれます。何故なら、この世は神の御旨と比べると余りにも汚れているからです。聖い人の存在そのものが、この世の人にとり、良心の苦痛となります。だからこの世は、聖い人が疎ましくなり、排除しようとします。

    わたしたちを取り巻く社会の中で、自殺する人が多くいます。中でも精神的な苦痛を抱え、命を絶つ人が結構多くいます。正直な人が多いからと思います。何故なら、胡麻化すこと、いい加減に済ますことがでず悩むからです。            

    従って、聖い人が、この世に生きるには、自分の聖さを棄ててしまうか、この世の中に聖さを求め続ける以外にありません。この2つが両立するのは不可能で、この世では、聖い人が迫害を受けるのは逃れられない状況に置かれています。                                                 

▢まとめとして

 ヘロデ王は、イエスに関心があるものの、神、この世のどちらを選ぶかでこの世を選んでしまいました。私達は、迷うことなくイエスを選びたいです。そのためにもこれから7章以降のマルコ福音書の学びを通し、イエスの地上の生活の様子をしっかり学び、信仰をさらに確かなものとしたいと思います。