ヨハネによる福音書1:1~51  2022.7.10

西澤 正文

テーマ:見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ(29)

 神から使わされた洗礼者ヨハネは、光であるイエスを証しするために来ました。イエスを証しする者の中で、最も偉大な洗礼者・ヨハネについては、イエス御自身、マタイ福音書に詳しく紹介さている。「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は 現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(11;11) 

 このヨハネがイエスを証しする時、「声を張り上げて言った。」とあります。ヨハネは、イエスとは比べ物にならない、とるに足りない者、裏を返せば、イエスは人と比較できない偉大な方であると、大声を出して叫ばれたのです。このことからも洗礼者ヨハネの人間的に素晴らしい方、自分を徹底して低くされる方であることが伝わって来ます。

 イエスが自ら「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は 現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」の言葉が、決して大げさでないことが分かります。

 ヨハネのもとに遣わされた祭司、レビ人とヨハネの間に問答があります。祭司、レビ人が「あなたは誰ですか」と問われれば、ヨハネは「主の道を真っ直ぐにする者だ」と答えました。これは、もう直ぐイエスが見える。イエスを迎える準備のため、私は、イエスが行動しやすいように道を真っ直ぐにし、デコボコ道を平らに整備する者だ、と答えました。さらに続けて、「イエスの履物のひもを解く資格もないものです」(27)と、徹底してへりくだります。それ程に自分を低くします。ヨハネは、立場をわきまえることが出来ますし、また、それ程比べようがないほどイエスの偉大さを尊び讃えていることが分かります。

 そして、いよいよイエスが来られるのを見て言い

 

 

ました「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。ヨハネがイエスを紹介したのが、この言葉でした。大変意味深いと思います。

 ヨハネはイエスを苦難の僕になるのを予言しています。私たちの全ての罪をイエスが一身に背負われ、イエス自身が打たれることによって、私たちの罪が帳消しになることを予言しました。それがイザヤ書の予言です。

「彼がになったのは私たちの病 彼が背負ったのは私たちの痛みであった 彼が刺し貫かれたのは 私たちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは 私たちの咎のためであった 彼が受けた傷によって、私たちはいやされた 私たちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った その私たちの罪の全て 主は彼に負わせられた 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった 屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」(イザヤ書53:4-8)

死ぬべき私たちが、イエスが身代わりとなり、私たちの罪、世の罪を一身に背負われ、死んでくださった。これより大な愛は、世界中のどこにもありません。

 しかし、どうしてどうして、イエスがこの世に誕生した目的は十分頭の中で分かってながら、小羊であるイエスの十字架の前を素通りしてしまうのです。命の恩人であるイエスの前を涼しい顔をして何事もなかったかのように通り過ぎてしまいます。

▢結びにかえて

 使徒ヨハネは、過越の祭が近付き、かつ、過越の祭の際、死なれたイエスを思い、過越の小羊に重ねてこの語を記された。純粋で汚れのないイエスと小羊、私たちも汚れない、素直な心をもち、日々イエスの姿を思い描きながら歩んでいきましょう。