ヨハネによる福音書18:1~40        2022.11.20

西澤正文

テーマ:イエスは「わたしである」と言われた。(5) 

 イエスは、しばしば弟子たちとやって来るキドロンの先のゲッセマネの園におられた。するとその場所を知っているユダは、一部隊の兵と大祭司達、最高法院から派遣された下役らとを引き連れ、松明やちょうちん、武器を持って姿を現した。

 それにしても、イエスを捕らえようとする相手は、灯りや武器まで用意し、一団を形成し

やって来た。イエスは、この事態は既に承知しており、一人で冷静に対応された。相手の大掛かりな群れとイエスとその弟子達を比較すると、そのアンバランスが良くわかります。

 イエスは、一団を見て、自分から進み出て「誰を捜しているのか」と言われた。彼らは「イエスだ」と答えれば、イエスは「わたしである」と言われた。その時、彼らは“後ずさり”し、地面に倒れた。何故でしょうか? イエスの姿、雰囲気が、今まで経験したことのない威厳に満ちた力を感じ、自ずと地にひれ伏すしかなかったのです。

 

 更にイエスがその後、「私を探しているなら、私の弟子たちを去らせなさい。」(8)と言

われました。前章でイエスが、「わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びま

せんでした。」(同17;12)の言葉が成就するため、ユダ以外の弟子たちを避難させるよ

う指示されたのです。

 イエスの態度は、終始冷静でした。逮捕されるイエスが平然とされ、逮捕しようとする祭司長達がびくびくしている。滑稽です。イエスが民衆の心をとらえこのまま自由にさせたら、自分たちの立場が狭まってしまう焦りからの逮捕であり、無理があることを証明しています。

▢むすびとして

 イエスは、危機に直面しても冷静でいられたのは、神に全てお任せしていたからです。私たちも、神、キリスト、そして聖霊にお任せし、イエスのように落ち着いた行動がとれるよう切に祈っていきましょう。