ヨハネによる福音書2:1~25  2022.7.24

西澤 正文

テーマ: 「わたしの時はまだ来ていません」(4) 

 ガリラヤ湖から西へ約20kmの町、カナで婚礼がありました。イエスと弟子たちは婚礼に招かれ、カナの町へ出掛けられた。

 そこにはイエスの母も居られた。宴席で葡萄酒が無くなってしまい、心配となった母は、このことをイエスに告げた。ひそかにイエスがその能力を発揮し、奇蹟を起こしてくれることを期待しただろう。しかし、イエスは、母の要求に直ちに応じませんでした。イエスは母に対し、よそよそしい対応をされた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(4)

 このイエスの母に対するよそよそしい言葉、対応を受け、母はさぞかし驚き、悲しくなったに違いない。しかし、違いました。母はイエスの拒絶にあいながら、母の願いを拒絶することはないことを直感したかのように、傍らの召し使いに、今後、イエスが命じられるなら、その通り行動するよう指示しました。

母に対するイエスの行動は、正直、大変厳しいものがあると感じざるを得ません。しかし、冷静に、信仰的に考えれば、全て神の御旨に従って為されていると受け止めることが出来ます。

イエスが言われた「わたしの時」、この時は神から示される時です。ですから、イエスと母と間には、肉親の関係、母と子の関係は入る余地はなかったと言えます。イエスの御業は、常に神から示され、為すべき時が来た時に行われました。  

 その後、イエスは、召使いたちに水がめに水を満たしなさい、と指示を出しました。宴席では普通、

 

 

 

よい葡萄酒を振る舞い、人を酔わせ、舌の感覚が鈍る頃、劣る葡萄酒を振る舞いますが、イエスはこれとは反対でした。人が造ったものが尽きた時、神の良いものを与えられました。イエスが「わたしの時」と言われたのは、この時でした。

饗宴の世話役が「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」と、驚きを隠せない気持ちを正直にイエスに伝えました。

 イエスは、祝宴の場で、水をぶどう酒に変える御業を披露し、神の栄光を現わす場に変えました。そして人間が造った以上の上質なぶどう酒を用意されました。どんな時でも、神は素晴らしい御計画を立てておられるということを信じるのがキリスト教ではないでしょうか。信じるとは、イエスをお迎えしイエスに従うことです。イエスはいつも、既に、わたしたちのところに来てくださっています。ここでは、水瓶に水を一杯入れなさいと言う御言葉に従うということです。わたしたちの日常生活の中でも、イエスの御言葉に従う時、御業が行われることを信じます。

▢むすびとして 

 最初の奇跡(水がぶどう酒に変わる)が、極めて日常的な中で行われました。イエスの御業、御力が如何に大きなものであるか、人々にとりイエスの偉大さをマジマジと拝見できました。イエスは、人ではなく、常に神の御声をお聴きし、御旨を訪ねながら行動します。イエスの姿勢を見習って生活していきたいと思います。