ヨハネによる福音書3:1~36  2022.7.31

西澤 正文

テーマ: 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。(18)

 ニコデモは、ファリサイ派に属する者であり、尚且つユダヤ人の議員と言う肩書のためであろうか、昼間イエスに近づくことをためらい、人目につかない夜になるのを待ってイエスのもとに足を運んだ。イエスに対し、好意的で関心があったのであろう。イエスにお会いしたニコデモは、率直に心の内にある感想を伝えた。

 「あなたは神のもとから来られたラビ(教師)です。なぜなら誰も行うことが出来ないしるしをされたから」それに対しイエスは、「新に生れなければ神を見ることが出来ない」と応えられた。

 イエスは、新たに生まれることは、聖霊によって古い自分が死に、新しい自分に生まれ変わることを言われた。ニコデモは、そんなことありえましょうか、わかりませんが、と言う態度であった。ニコデモの率直な姿勢、まっすぐな素直な姿勢、好感が持てます。  

 イエスは、熱心に求める姿勢を好まれ、よく「あなたの信仰があなたを救った」と言います。きっとここでもイエスは同じ気持ちを抱いてニコデモに接していたのではないでしょうか?

 神は、独り子・イエスを与えるほど世を愛された。何故なら、独り子を信じる者が一人も滅びず永遠の命を得るため、また、世が救われるためであ

 

 

 

 

 

る。

さらに言えば、神がイエスをこの世に送られたのは、我々が救われるためです。これが神の愛です。ですから、神がこの世に送られた御子イエスを信ずる者は裁かれない、信じない者は既に裁かれていると言えます。(18)

 なぜなら、御子を信じない者(悪を行う者)は、光を憎むため、行いが明るみに出されるのを恐れ、光(イエス)の方にやって来ない。両者の違いが明確になります。光(イエス)を選ばず闇を選ぶ。この選択そのものが、裁かれると言っています。裁きは通常、死後、また、再臨の時に行われます。しかし、イエスを選択できない人は、既に裁かれている。一方、真理を行う者は、光の方に来て、神により導かれたことがはっきりわかります。それは、今、イエスを信じているかどうか、その態度が、裁かれているのです。

▢むすびにかえて 

 イエスが「新しく生まれる」と言うのは、罪を心から悔い、イエスが自分のために命を落とし、身代わりになられた。このイエスこそ私の命の恩人、神からいただく人生最大の恩恵として頂くこと、それは、古い自分と別れ、新しい人間として生まれ変わったこと。単純明快に言えば、「新しく生まれる」とは、イエスを信じること、信じる人になったことです。