ヨハネによる福音書5:1~47   2022.8.14 西澤 正文

テーマ:「良くなりたいか」(6)「起き上がりなさい」(8)

 三十八年間、来る日も来る日も池に通い続け、まだ病が治らないとは、あまりにも悲しすぎる。長い間、ベトサダの池に通えば、顔見知りの人もできたであろう。もしいなければ、自らが積極的に良好な関係をつくり、手を貸してくれる人を作ることが必要ではないだろうか。自分の力、知恵により、自立しようとする意志が弱いように思います。「助けてください、手を貸してください。」と言える勇気があれば、三十八年も待つことなく、別の人生を送れたであろう。

 イエスは、ベトサダの池に集まる特定の人に言っているのではなく、私たちに向い言っている様です。ベトサダは、「恵みの家」という意味ですので、特定の場所ではなく、イエスの恵みに預かりたいと願う人の居るところではないでしょうか。

 イエスは、この病人に何かを求めておられるのではないだろうか。自分の口で「良くなりたい、治りたい、その気持ちを発信しなさい」このような願いが込められていると思います。イエスの「良くなりたいか」の問いかけに対し、この病人は「池の中に入れてくれる人がいないのです」「ほかの人が先に降りて行くのです」と、言い訳を言いました。治りたい気持ちを言う前に、助けてくれる人がいなかった、と他人のせいにする気持ちを伝えたのです。

 

 「良くなりたいか?」「はい、良くなりたいです。」と、率直に応答できないところに、何か不足するものがあります。病人は、長い間通い続けても池に入れない、と半ばあきらめの気持ちが心の底に溜まっていたようです。池のほとりには、同じ境遇の人達が大勢集まったでしょう。そうすると、主の恵みに預かる「恵みの家」が、いつの間にかこの世の居心地の良さを求める場所、顔見知りの地と達が多く集まる「憩いの家」に成り代わっていなかっただろうか。主に顔を向けているつもりが、この世の人に顔を向けてしまったことに気付かなかったかもしれません。

 イエスの言葉が続きます。「起き上がりなさい。」と。神を信じ、あなたの生活する場所に戻りまさい、と叱咤激励しました。すると嘘のように、自分の足で立つことができ、その場から去っていかれました。

 過去と決別し、神の恵みに預かることができるよう、新しい「恵みの家」探しに出掛けた姿です。信仰生活の再スタートをしなさい、とイエスは背中を押し、送り出しました。

▢むすびとして

 この病人を通し、イエスは私たちに「一定のところに安住せず、立ち上がって神の恵みを求めて歩みなさい」とのメッセージを送られているように思います。毎日、来る朝毎に心を入れ替え、真白な気持ちでイエスと向き合い、今日も私に恵みをお与えください、示してください、従って生活します、ということではないでしょうか!