ヨハネによる福音書7:1~53   2022.8.28 西澤 正文 

テーマ: イエスは立ち上がり大声で言われた(27) 

 イスラエル人は、毎年10月15日より8日間、40年間荒野で天幕の中で生活したことを記念するため、路傍などに天幕を作り、その中に住み、荒野の生活を記念する色々な儀式が行われた。最終日、その年に収穫した穀物を神にささげて祝宴を催された。しかし年数を重ねるうち、祭の目的は忘れられ、ただの御祭り騒ぎと化したと言われてる。この祭にも多くの人々これを祝せんためにエルサレムに集った。 

 イエスは、この仮庵祭の最終日、皆がエルサレムからそれぞれの家に帰るその時を待たれた。そして当日、「イエスは立ち上がり、大声で言われた」(37節)とあります。イエスの何としても目の前の人々に伝えたい、大事なことを伝えたい、そんな気持ちがひしひしと伝わって来ます。 

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 

 渇いている人は、喉ではなく、心が、魂が、渇いている人のことです。その人の内に霊が宿り、心、魂を潤すことです。イエスのところに来て飲むとは、イエスを「信ずる」ことです。イエスを信ずる人は、ただ己の渇きを永遠に癒すだけでなく、イエスという水源に接続することで、己の腹から活ける水が川となり、尽きることなく流れ出ることを言っていま

 

 

す。イエスの水源に接続できれば、自分だけでなく、他の多くの人々の渇きを癒すことができます。

 知識や修養や感情によってはこの様な豊かさ、自由さ、純潔さを持つことができません。この様に、信仰は、イエス信じる事を通し、人格的に交わることをいっています。従ってイエスが泉の水源であり、信ずる人は、己の腹の中にこの水源を宿すことができるのです。

 イエスは、既に4章で「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える

水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(4;14)と言い、同じことを繰り返しています。それほどイエスを信じ、繋がる事の大切さを宣べています。

 私は時々、自宅近くを流れる山切川沿いを散歩する時、冷風が汗ばんだ肌をなでて流れ

る時、言葉では言い表せない爽やか気分を満喫する。その時は、ただ身体が気持いいということだけでなく、心の底から、内面から癒され、元気を与えられた気持となります。

むすびとして

 イエスの水源に繋がるとは、1日の生活の中で1回でも多くイエスを思い出して生活し、1度でも多く祈る時を持つことです。「神様、買い物に出掛けます。事故に遭わないで無事に家に戻ってくれますように守ってください」、 このような身近な用事の時、心の中でイエスと会話することが多くなるよう生活していきましょう。