19章1-40      2020.2.2
                           小田弘平
 パウロは内陸の地方から当時人口25万人の大都会であるエフェソに着いた。そこで何人かのヨハネ教団の信徒に出会う。彼らは「悔い改めの洗礼」を受けていたが、イエス・キリストの洗礼は受けていなかった。そこでパウロはヨハネが洗礼を授けたのは「自分の後から来るイエス・キリストを信じるようになるため」だったと説明した。パウロの説明を聞いて彼らはイエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が下った。
ここでもパウロはユダヤ教の会堂に入って、安息日ごとに三か月間、イエス・キリストの福音を語った。しかし伝統にとらわれるユダヤ教徒はパウロの語る「神の国」を受け入れようとしなかった。そこでパウロは会堂から出てティラノという人の講堂でニ年間、毎日伝道した。
 この間、パウロの生活は誰が支えたのだろうか。パウロは天幕づくりを職業としていたというから、講堂で語る時間以外は、ひたすら天幕づくりに精出していたと思われる。彼は手ぬぐいを首にして前掛けをして働いていた。職人パウロの姿である。聖書に詳しい律法学者や祭司でなく、職人によって神の国の福音が伝えられたとは実に愉快なことだ。書斎や研究室で神学を研究した専門家によって語られたのではない。パウロは前掛けに着いた糸くずなどを払いながら、手ぬぐいで汗を拭きながら、汗臭い身なりのまま講堂に駆け

 

つけたことだろう。聞く者もその日の仕事にあぶれた日雇い労働者や無職の人、あるいは子どもを連れた婦人たちだったろう。このように福音は元来平民のものである。この結果、アジア州に住む者は誰もがイエス・キリストの福音を聞くことになったという。
 ところで12節には「パウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気は癒やされ、悪霊どもも出ていくほどであった」とあるが、本当だろうか。物質を経由して神の力が働くことことない。13節の祈祷師の行動も同様に理解できない。エフェソの人々の宗教的堕落を現している。パウロの福音伝道は神以外のものに頼ろうとする思想との戦いでもあった。
 さらにパウロが「手で造ったものなどは神ではない」と言ったので、アルテミスの神殿模型製作で利益を得ていた銀細工師たちが仕事がなくなると、経済的立場からパウロを攻撃した。これにまんまと乗らされたエフェソの人々は騒動を起こし、野外劇場になだれ込んだ。劇場は混乱し、町の書記官が「無謀なことをしてはいけない。訴え出たいのなら、決められた日に法廷に訴え出よ」と言って、無秩序な集会を解散させた。
 この問題は経済的理由から起きた騒動であるが、エフェソの人々の心の問題が争われている。神ならぬものを神とするエフェソの人々の実態が明らかにされた。経済第一主義の現代の人間の姿が問われている。