22章1-30      2020.2.23

                           西澤正文

テーマ:「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください」(1) 

前章では、エルサレムに到着したパウロが、命を奪われる危機に遭遇したが、ローマの軍隊により助けられた。この後、ローマ軍千人隊長は、騒ぎの真相を調べるため、パウロを兵舎に連行するよう命じた。今日はその続きの部分を学びます。 

 殺そうとした民衆に向かい「兄弟であり父である皆さん」と、何故言えたのか…素朴な疑問を持ちます。パウロは完全に、神、イエスの側へ立ち位置を変えたからです。 

  キリスト教信者を捕まえては迫害を繰り返していたパウロにとり、イエスは完全な敵でした。そのイエスがわざわざパウロのところにやって来て「サウロ、サウロ、なぜ、迫害するのか」と言われた。そのようにしてパウロはイエスに出会うことが出来ました。

 パウロは、キリスト信者を迫害する中で、イエスの存在、イエスの教えがどういうものか、また、キリスト信者にとり如何に大きな影響を与えたか、キリスト信者以上に知っていたのではないかと思う。 

 パウロのイエスを信じる人への迫害が、激しいものであったため、ぐいぐいとイキリスト信者に接近したため、パウロにとり、イエスも近くにおられたのです。

  そのような状態の中で、パウロは天から発せられた「サウロ、サウロ」と、自分の名前を呼び掛けられ、「主よ、あなたはどなたですか」と、素直に応答しました。分かる気がします。パウロは自分の名を呼んだのはイエスと知り、驚きましたがそれ以上に嬉しかったでしょう。イエスが「サウロ」と呼び掛け、パウロが「主よ」と答える関係は、もはや迫害者、被迫害者ではありません。

 この関係が分かると、民衆の前に立ったパウロは、完全にイエスに愛された者として、イエスの福音を証言する一人として、大切な場を与えられたことを感謝し、臨まれたことが分かります。

 1節「兄弟であり父である皆さん」の群衆への第一声は、もう迫害

 

 

  

 

者でなく、立派なキリスト教信者に生れ変ったパウロの姿でした。

 パウロは、迫害中のただ中で回心を体験しましたが、その体験を

全身で受け止めたのである。それまで自分の犯した罪が如何に大き

なものか、にもかかわらず全て赦していただけた愛の力の大きさを

知らされたのである。頂いたこの喜び、感謝を異邦人の人々に告げ

なさいとの使命を受けた者であることを、今、弁明しようとその場

を与えられたのである。 

 パウロの心境がヨハネの手紙に現れています。ヨハネの手紙Ⅰ4:18 「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締めだします」 今、パウロはこの御言葉を実証しているのです。 

 「兄弟であり父である皆さん」は、社交辞令の挨拶でなく、神の愛、イエス・キリストに愛された者の喜びから自然に出た、心からの挨拶であった。それだから、パウロの心は余裕があったのです。 

この一連のパウロの回心の体験の弁明は、なんらユダヤ人に対する直接の攻撃でなかった。回心の事実は、①力強く話すことができる ②聞く人に感銘を与える ③反論、異論をはさむことなく一方的に聞かせるものです。聞かされたユダヤ人は、イエスを十字架につけたのは、自分達であることに気付かされ、弁解の余地はなく、居たたまれず、中止させるしかなかったのです。 

■むすびとして 

 イエスとの出会いがパウロの回心となりました。回心を経験した人はどんな人でも、将来に渡り、その人の「信仰の原点」となります。不安や困難に直面した時、回心した当時を思い起こせば、イエスに出会った時の新鮮な信仰が蘇り勇気、活力が与えられます。パウロは、回心した体験を3回語っています。私たちは、パウロのような鮮やかな回心体験はなくても、今、ここで自分自身のキリスト教との出会いをしっかり整理していくことが大切に思う。そうすればもっとイエスとの出会いが鮮明になりさらに信仰の基礎がしっかりして来ますし、その人にしかない証し、救われた恵みの福音を語ることができます。