28章1-31     2012.5.24 

西澤正文

 テーマ:どんな時、所でも神の栄光が現れる(4.6)

  パウロが乗った船は、誰ひとり損なわれることなくマルタ島に着きました。それは27章で天使から言われていた通りで、全員が無事に上陸を果たしました。 

 島の人たちがパウロたちを温かく迎えたその時、一つの事件が起きました。マムシが出て来てパウロの手を噛みついたのです。島の住民は、パウロが何か悪いことをしているに違いないと思い、「正義の女神」はパウロを生かして置かないのだ、と判断しました。ところが、時間が経ってもパウロには何の変化も現れません。すると一転して、「この人は神様だ」、悪人から神様と賞賛されました。 

前章では災難に遭い、やっとマルタ島に上陸すればマムシに噛まれる災難に遭い望みが絶たれる… しかし、パウロはその所々で神の栄光を表しました。 

 人は、都合の悪い時、中々神の栄光を表すことが出来ません。特に、不幸、災難に直面する時は、中々栄光を表すことができません。  

しかし、パウロは限界状況の中に置かれても、神の栄光を表します。月は昼間、姿を表すことができませんが、夜、表します。太陽と違い、月は柔らかい慰めを人間に与えてくれます。神は、どんな時でも現れてくださる方です。 

パウロは災難にあった時、神の栄光を表すことが出来ました。(イザヤ28:16 P1103)「わたしは一つの石をシオンに据える。 これは試みを経た石  固く据えられた礎の、貴い隅の石だ。 信じる者は慌てることはない。」 神様が頭石を置いてくださったから、どんな状態にあってもあわてることはありません。神様を信じる人は、自分を失いません。神の御愛がその人の生活の基盤となるからです。頭石の上に立てば、どんな時も神の御心があると確信し生活する人となります。どんな困難に直面し手も慌てません。たとえ死ぬようなことであっても、神は常に最善をなされる このことを信ずれば心は揺れません。

 

 

  

例え、自分の思い通りにならなくても、神には神様の思いがあります。夜が真っ暗でも月は出ています。夜も神の栄光が現れます。昼も夜も神の栄光の時です。どんな所でも神の栄光の場です。神はいつもおられます。迫害に遭っても近くにおられます。 

マムシにかまれても どんな所でも栄光を表す所であると信じれば、策略があろうが、どんな時でも、神の栄光の時です。迫害に遭っても慌てることはありません。それをパウロが、ここマルタ島でも証明しています。 

パウロがエルサレムへ行こうと決心した時「ローマもいかなければ」(19:21)と大きな希望を持ちました。「その夜、主はパウロのそばに立って言われた『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証したように、ローマでも証しをしなければならない。」(23:11)それがどういう形で実現するかパウロにも分かりませんでした。いろんなことがありましたが、今、ローマに到着しました。 

パウロは、今後異邦人に伝道すると隠さず伝えました。ユダヤ人に発言したのはせめてもの嫌みかみしれません。また、何かを感じてくれれば…の期待もあったかもしれません。  

その人が今、神に対してどの様な心、魂をもつかが大切なことで、砕かれた心を持つ人は誰であろうと、神は喜んで受け入れてくださいます。 

■むすびとして 

パウロは、2年間借家生活をし、誰彼となく訪問者を受け入れた、何の妨げもせず、とあります。自由に教え続けた…とありますが、これは、使徒言行録は終わっていないという事です。尻切れトンボの様ですが、続きのページは、我々が書かなければならない、ということでしょうか。私達も、どんな時も神の栄光を表せますように、と願って進んでいきましょう!