ルカ14:1-14 2024.12.8
西澤 正文
(テーマ)安息日だからと言って井戸に落ちた息子を助けないのか(5)
イエスは、ある安息日、ファリサイ派議員の食事に招かれ家に入られた。このファリサイ派の議員は、イエスを敢えて自宅に招いたことから、イエスに対し尊敬を抱いていたことが伺えます。
イエスが家の中に入られた時、そこに水腫を患う人がいたが、この人は招待を受けたのではなく、今日イエスがこの家に来られたことを聞いて、待ち受けていた。家の人や来客者たちは、一斉にイエスが、この人に対し、どういう対応を取られるか注目していた。
イエスは、その場にいた律法学者やファリサイ人に言われた。
「安息日に病気を癒すことは、良いか、いけないか」 彼らは黙っていた。イエスはその人の手を取り、癒され、帰らせた。そして彼らに言われた。「あなた方の中に、あなた方の子、または牛が井戸の中に落ちたら、安息日だからと言っ
て、直ぐに引き上げてやらない人がいるだろうか?」(5) 彼らは答えることが出来なかった。
安息日の解釈について、パリサイ人は、労働しない、働かない、このことを守る日、形式的な考え方。一方イエスは、救いは、救いを必要とする時、場所により、即時あたえられなければならないものでした。
水腫を患っている人が、イエスのお会いできたのは絶好の機会でした。一生に一度有るか無いか、この絶好の機会を逃したくないと言う直感、その思いがイエスに伝わったのです。
▢結びとして
私達は、イエスとの出会いをどう考えたらよいのでしょうか? それは、礼拝に出席している、出席が許されている、イエスの御言葉に耳を傾けている。漠然と何となく聞いているのではなく、集中して耳を傾けている。たった一言でもいい、心の奥深くに染み入る言葉があれば、幸せであり喜び。心の中深くに染み入る言葉に出会い、その言葉をしっかり刻み、明日からの生活の力、拠り所となることを強く願うことです。