マタイ26:1-46        2015.12.20
-何ものにも代えることのできない大切な人・イエス- 
 前25章で天国の到来、その時の裁きについて語ったイエスは、間近に迫った自身の死について語る。その中でイエスは、「十字架につけられるために引き渡される」(2)と、暗に、身内から引き渡す行為が生まれることを示した。
 その後イエスたちは、エルサレムから2.8Kmと近い町・ベタニアに入る。ユダヤの女性にとり香油は非常に大切なもので生活に欠かせない物、それを惜しげもなくイエスの注ぎかけた女が現れた。無駄遣いのように見えた弟子たちが憤った。しかしこの女にとっては、自分にとり命に代えることのできない大切な人なら、決して無駄遣いと思わなかった。「貧しいやもめが生活費全部を賽銭箱に入れた」(マルコ12:41-44 P88)やもめのように、「良い真珠を見つけた商人が財産をすべて処分し購入する」(マタイ13:45-46 P26)商人のように、何ものにも代えることのできない人としてイエスを見ていた。だからイエスさえいてくださるなら何もいらないと考え、一切のものを捧げた。
女は、今迄罪を犯し、その罪を何とかしようと思ったがどうすることもできずに重荷に耐えかねていた。その時に重荷を引き受けて死んでくださろうとしているイエスの姿を見て、女は自分の一切合切をイエスに注いだのであった。
 ユダはサタンに捉えられてしまった。しかし結果的に、このユダの裏切りがなかったらイエスの十字架上の死はなかった。従って広く大きく考えればユダの裏切り行為も神様の御計画であると捉えることが出来る。人間にとり、神の御心は量りがたい。 
 更にイエスは、自身が捕えられた時、弟子達は、一人残らず私を置いて逃げ去ることを予告する。しかし、ペトロは、「私は、私に限ってそのようなことはしません」と宣言する。イエスは、今、ペトロに警告し、あとで躓いた時、この言葉を思い出し、自分の弱さを知り、再び自分の力を過信せずいつも神に祈り強くしてもらうようにされた。
 その後、イエスたち一行は、オリーブ山からゲッセマネへ向かう。そこでイエスは、ペトロ、ゼベダイの子2人に声を掛け、イエスの祈りに同行させる。そして「わたしが祈る間、目を覚ましていなさい」と言い残し、3度祈る。しかし3度とも3人は眠っていた。 この大切な時に、弟子3人は眠り、1度も目を覚ましていない。イエスの悲しみはいかばかりか、察して余りある。これ程に人間は誘惑に弱い。この誘惑は、肉体だけでなく人間を取り巻くあらゆる誘惑を指す。
 イエスは、個人的な願いの祈りの後、思い直したように「御心がなるように」と祈られ
た。気持ちの整理がつき、「立て、行こう」と弟子たちを促しゲッセマネを去った。神の子
として神の命に従う決断がついたのである。
▢まとめとして
・高価な香油をイエスに注いだ女は、自分のために死んでくださるイエスを見ていた。だからイエスさえいてくださるなら何もいらないと考え、一切のものを捧げた。イエスが十字架に架かり、この世を去って二千年。私たちは私たちのために死んでくださった十字架上のイエスの姿を心の中に思い描き、救われた喜び、そして今生かされていることへの感謝を忘れずに生活したい。
・普段の祈りは、ついついお願いばかりのオンパレードとなってしまう。しかし、主の祈り「御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」のように、祈りの最後は「み心がなりますように」で終わりたい。