フィリピの信徒への手紙1章1-30  2012.7.26

                   西澤正文
テーマ:本当に重要なことが見分けられるように(10) 
 パウロは獄中にあって、「喜びを持って祈る」(1:4)と言っています。何故その様な心境になるのでしょうか? フィリピの人達が福音に預かって生活していると聞いているからです。(5)パウロは、自分の獄中生活のことでなくフィリピの信者たちを気にかけています。このことからもイエスの僕に徹している姿が浮かんできます。
 パウロが「喜ぶ」と言っていますが、「喜ぶ」とはどんな意味でしょうか。獄中から「喜びなさい」と言われても、聴く方はピンときません。パウロは頭が変になったのでは…と危ぶみたくなります。
パウロは、喜べそうにない時に喜ぶと言っています。阻まれた時になお喜ぶ。それは、「どんな状況にあっても、喜びをもって生活することが出来るようにしなさい」と言うメッセージです。要は喜びの根拠をどこに置くか、を問うているのです。
「知る力、見抜く力を与えられ、重要なことが見分けられるように」(9-10)と語っています。確固とした生活基準・価値基準を持ちなさいと言っています。
 私が思うキリスト者の生活基準は、
・自分でなく、神に任せること 

・目線は、この世でなく、天へ、空を仰ぐこと
・見える富、物、金でなく、見えないもの(信仰)に心を向けること
・多くの人達でなく、少数の人達に心を寄せること、関心を持つこと
・多くの人達が胸を張って行き交う広い道で無く、狭く険しい道を選び進んでいくこと
・賑やかな場所でなく、静かで寂しい空間に身を置いて落ち着いて生活すること 
と思います。
 「風の旅」の著者星野富弘様は、次のように言いす。「よろこびが集まったよりも 悲しみが集まった方が 幸せに近いような気がする 強いものが集まったよりも 弱い者が集まった方が 真実に近いような気がする しあわせが集まったよりも ふしあわせが集った方が 愛に近いような気がする」
  

 

 



 この詩を読んで思うのは、神様も、悲しみを抱えた人、弱い人、不幸せな人のところに近づかれることが多いという事でした。実際に聖書の中でイエスは、皮膚病を患う人、手・足がなえた人、盲人、悪霊にとりつかれ口の利けない人、長く出血の止まらない女性、金持でありながら皆から厭まれた徴税人・ザアカイ等の人を愛され、癒されました。時に、イエスの方から近づいたり、振り向かれたり、声をかけたりされたのを見ますと、星野富弘氏の詩に登場する人は、イエスが愛され、心を止められた人と重なります。
 イエスは、この世の人が重要視される価値観とは異なり、その真逆の価値観を大事にします。ですから、端的に言って、イエスは、「この世で悲しみや不安、苦しみや悩みを抱えられた人達にそっと寄り添う方」と言えます。
星野氏が「喜びが集まったよりも悲しみが集まった方が幸せに近い」と言っているのは、今日のフィリピの信徒への手紙で「喜びなさい」と言う趣旨と反対ではないかと思われますが、そうではありません。
 星野氏が歌う詩は、喜びに満ちている時よりも悲しんでいる時の方が、神様、イエス様が近くに居てくださる、と歌っています。ですから、神、イエスが近くにいてくださると感じる時、喜びの心に満たされるのです。パウロの厳しい獄中生活であるからこそ、通常の自由が保障された時以上に、不自由な時ほど強く喜びを感じる、と言うことです。
▢むすびとして
 信仰とは、一番大事なこと生活基準(価値基準)を神に委ねることです。自分の手の内に握っている時は平安でありません。生活の基盤を神に置いたら心が揺れることはありません。パウロは、監禁中の身であっても落ち着き、心は喜びで満たされ、信仰が基盤になっているから、キッパリと「喜びなさい」言えるのです。