静岡クリスマス講演会

 

講師 西澤 正文(静岡県)

 

 昨日までの雨がやみ、朝から青空が広がっていた。しかし、強風は当日になっても治まらず、その影響か、富士山はいつもと違って今一つはっきりとした姿を見せてくれなかった。それでも、駿河湾の海は、落ち着いた深い緑色に染まり、陽を浴びた海原が遥か遠くまで輝いていた。初めて会場を訪れた人たちは、「わー」と言って窓辺に立ち尽くし、しばし無言で窓の外を眺めている。確認できた当日の参加者は48名、私の記憶では今までの最高であった。定員45名の会議室は席が不足し、補助イスを出し席を確保した。初めて参加された方々への挨拶もそこそこに済まし、まず私が壇に立った。

 

悲しみが喜びに

 

 今回の「悲しみが喜びに」の演題、内容はともかく、まずこの題から決定したのだった。最近、悲しみを抱えた人が多くいるように感じられ、何とか楽な気持ちになっていただけたら、との願いからであった。聖書はヨハネによる福音書1620節‐24(「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。‥‥」)までを引用し、イエスの弟子に告げた受難前の心境を語った。

 

 イエスの生涯は30数年、伝道活動は30歳を過ぎてから約3年と言われる。人々を罪から救うためガリラヤ地方を中心に、神から遣わされたメシア・救主として各地を転々と訪問する日々を過ごした。その人その人の力に応じた分かりやすく、また必要な神の御言葉を語った。人を分け隔てせず、全ての人に語り続けるのが特徴であったため、それまで社会の片隅で人目を気にしながら生活した徴税人、罪人、貧しい人、孤独な人、重い病を負った人、未亡人、幼児などが続々イエスの周りを取り囲んだ。時の権力者はイエスの影響力をこのままに放置することは出来ないと判断し、殺害計画を立てるまでに及んだ。イエスは、いよいよ神の御心が迫ったと受け止め、十字架の死を覚悟しつつ片田舎のガリラヤを出る時を迎えた。この時に、行動を共にした弟子たちに自身の胸の内を告げたのであった。それが今日の聖書箇所(ヨハネ福音書)の御言葉である。

 

 イエスは逮捕された。イエスの逮捕と同時に行動を共にした弟子達を初め、一般民衆全ては、イエスを見捨てて立ち去った。イエスは全て神の計画通り、十字架上で死に、そして3日後に復活した。約束に従い死に、そして約束通りに復活したのである。

 

 この復活が新しい歴史の始まりとなった。イエスが弟子達だけに告げた十字架上の死、3日後の復活、この予告が全て事実となり証明された。弟子達は、この事実を通し改めてイエスは真実な人、約束を守る人と分かり、心を入れ替えて復活したイエスを今度こそ本当に信じたのであった。その証拠に弟子達が別人となり、イエスを救い主・キリストと信じ、勇気を持って福音伝道を開始する。語るべき御言葉は、その時に神から遣わされた聖霊により示される、この信頼だけを頼り、まさに“信仰の人”となって、勇ましく街々へ散って伝道に励んだのであった。イエスの死の悲しみが復活の事実により喜びになったのである。信仰により初めてこの喜びを実感したのだった。

 

 私に小さな体験がある。大学4年間は病気一色であった。当時まだ原因不明と言われた自然気胸に苦しんだ。私の場合、両側同時の発症であった。1年生の11月に入院し退院は年を越し2月、実に4か月間入院生活を送り、その間12月25日父を亡くした。2年生の時も11月発症し1か月間入院。そして4年生の11月再発、自宅で静養中のある夜、激しい腹痛に耐えかね救急車を呼び救急当番病院で診察。「今流行りの風邪なので温まって寝なさい」が、その夜激痛に苦しみ続け、翌朝、掛かり付け病院で盲腸が破れて腹膜炎と診断される。入院中、12月初め実施の静岡県教員採用2次試験が受けられず、夢であった中学校社会科の先生の道を断念。地元市役所へ就職したものの、満たされぬ気持を何とか埋めたいとの思いから職場で朝日ジャーナルを定期購読。そこに「矢内原忠雄伝」が連載され毎週楽しみに読むようになった。背骨が一本通った気骨ある生活態度に圧倒され、こんな人がいるんだ、と驚いた。何としても人間・矢内原忠雄を深く知りたいとの思いで、同紙上書評コーナーに浜松在住の溝口正様が登場、これがきっかけとなり矢内原全集をお借りした。数か月後に浜松集会に招かれ、地元清水の石原正一様の家庭集会を紹介され、数年後三島集会、県下の集い、岩島先生、堤先生の夏期聖書集会、そして全国集会へと年月を重ねる度に交流が深まり広がった。

 

 今、思い起こせば大学4年11月の救急当番医の誤診、これが私の人生の転機であった。暗闇に覆われた悲しみの中で手にした週刊誌の中で矢内原忠雄、溝口正と出会った。2人から喜びの世界へ導かれた。予期せぬ小さな出来事から思いもよらぬ光の世界、喜びの世界が待っていたのである。

 

 キリスト教に出会って38年、神様と出会った喜びが年々増すことを感じ、神の御心にただ感謝するばかりである。

いのちの福音 

浦和キリスト集会 関根義夫(埼玉県)

 

キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして天上のもの、地上のもの、地下の者がすべて、イエスのみなにひざまずき、すべての舌が、「イエスは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリ2:6-11)

 

昨年の夏、臼井吉見の講演集を読んだ。そこに「人生とは何か」という題の講演が載っていた。人生には、だれもが例外なく営んでいる「暮らし向きの実際生活」がある。しかしこれだけなら動物だってやっている。動物と違って、人間には「精神の世界」に生きるということがある。素晴らしい音楽を聴いたり、素晴らしい文学の世界に触れたり、美しい自然や、荘厳な宇宙のことを考えたりする世界だ。この世界に触れることによって人間はこれまで文化や社会を作ってきた。「精神の世界」に触れることこそ、人間の人間たる所以だ、として、臼井さんはその大切さを語っていた。 

 

本当にその通りだと思ったけれども、よく考えてみると、これだけでは足らないと思った。何が足らないか、と言えば、人間に本当に必要なのは、これに加えて「霊魂の世界」に触れることではないだろうか。「精神の世界」は、人間に考えることを促し、たくさんの能力と知識と科学技術をあたえ、人間の日常生活を格段に豊かにした。しかし一方では人間は、自分の知識や力を誇り、他を省みるという心のゆとりを失い、自分だけがよければそれでよい、という考えを平然と生きるようになってしまった。それが、2011311日の東日本大震災以降露わにされてきている、と思う。しかも、あれほど大きな災害を経験したのに、その経験を本当に生かそうとしていない、もうすでに何事もなかったかのように動き始めている、そういう大きな流れがこの国を、世界を覆い始めている。 

 

なぜ「霊魂の世界」に触れることが必要か、と言えば、自分を超越して存在する、宇宙の創造主である方の存在をしっかり意識して、その前に自分が如何に傲慢になりやすく、いかに他者の痛みを無視しやすい存在であるか、人がなすべきことは何か、をいつも考えるそういう生き方をわたしたちに教えてくれるからである。人間は決して絶対ではなく、本当に罪深いものであることを教え、人間がどこに立つべきかを示してくれるからである。人間の長い歴史の中での最も大きな発見は鉄器の発明でもなく、火の発見でもなく、また、原子力の発見でもない、何かと言えば、この宇宙に、全き義、まったき聖、まったき愛である神がおられる、ということに気付くことだと思う。このことによって人は、何度も何度も絶滅の危機に瀕しながら、かろうじて救われてきたのだと思う。人間が出会わなければならない苦しみや悲しみは実に深い。それを癒すものとして人々は自然や音楽、絵画などの芸術、世界の文学などに期待する。私もそうだった。しかし、どのような人間の営みも、人間の罪の苦しみや、心臓を切り刻まれるような悲しみをついに癒すことは出来ない。それを完全に癒すことが出来るのは、ただ神の子イエスキリストの十字架に秘められた神の愛の他には、この宇宙には存在しない、と思う。これこそ「いのちの福音」だ。 

 

私は、今年内村鑑三に関する一冊の書物に出会って、とても啓発されている。それは、藤原書店発行の別冊「環」⑱「内村鑑三1861-1930」(新保祐司編)である。その中に1930年生まれの評論家、渡辺京二という方の「鑑三に試問されて」という文章があった。渡辺は、鑑三のメッセージの中核は「生は義しいものでなければ生きるに値しない」という叫びだ、という。「己が正しい存在であるか、おのれがその中に在らしめられている世界が正しいものであるか、それこそ第一義の問題で、それ以外は、第二義、第三義だというのである。彼の一生を導くのは義しくありたい、そうでなければ自分は生きられない、という彼の魂から湧き出てやまぬ悲痛の要請である」と渡辺さんは言われる。ところが、現実の日本人は、「絶対的な正しさなどありえず、時と所によって相対的な正義」があるばかりだ、と教えられる。彼らにとっては「現生の幸福に役立つかどうかが一切の関心事である点に、同時代の日本人の致命的欠陥を見ずにはおれぬ人が鑑三なのであった。」これを読んで、まさにこれは現在の日本人の根本的な問題を指摘しているのではないか、と思った。渡辺によれば、内村は、「人生の九割九分が俗世間の領域に属することであることは認めても、他の日本人が全く無関心でいた、後の残された一分の残余が生じ、その残余こそ後の九割九分の存在意義を左右するのではなかろうか。」といい、その一分の残余にかかわることこそ、「霊魂の世界」に触れることなのだ、といわれる。それをとことん真剣に生きることこそ、後の九割九分の存在意義を左右すると信じて、その69年の生涯を真剣に生きたのが内村だった、と。わたしはまた全く新鮮な内村理解に出会わせられる思いであった。