20章1-38     2020.2.9
                          西澤正文
▢はじめに

 20章は第3次伝道旅行の後半で、帰路に着く前の出来事です。
テーマ:福音を証する任務が終えれば自分の命を惜しいとは思わない(24)
パウロを除く一行は、トロアスから船で、一方パウロは乗船せず徒歩でアソスへ。アソスでパウロを乗せ、ミティレネへ、さらにサモス島からミレトスの到着。パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せ、感動的な別れの挨拶をしました。
 パウロは、ユダヤ人の数々の陰謀により身にふりかかった試練に遭いながらも主に仕えてきました。ここがパウロの偉大さ偉さです。人は、説教はできますが、仕えることは中々できません。具体的に仕えたことを長老たちの前で、最後の決別遺訓として話されました。
 私を信仰に導かれた浜松市在住の溝口正さんは、戦争に加担し、敗戦を迎えられた。戦争犯罪者であることを悔いました。信仰を与えられ救って頂いた者、罪ゆるされた者として、戦争の反省から、絶対非戦主義者として、神に仕える人生を送られました。
 地域社会に信仰の自由と政教分離の原則を確立するため、自治会と神社を分離しなければならない、と地元自治会を相手に戦われたこと20年。自治会役員から「神社と自治会の分離はできない、不服なら大会もやむを得ない」と告げられ、やむなく退会を決意。私は、溝口夫妻から、「家に火を付けるぞ」「子供を誘拐するぞ」「引越しろ」等、脅迫電話が何回も掛かって来たことをお聞きした。その後、市当局からも広報誌等、行政サービスを受けられなくなり、住民訴訟を起すことを決意したが、その決意に至るまで悩み抜かれました。「訴訟を起こす前に、生半可な気持、態度では戦えない。場合によっては命を懸けなければならない。決断を出すにあ

一人ぼっちになり、恐怖と不安におののいた。祈りに祈った。鮮やかに示された言葉は、『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、

 

 

 

 

自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』(マルコ8:34-35)とのこと。さらにこう伝えている。「今や私はこの聖句なくして瞬時も生きられない人間となった。私の心はぴたりと定まった。私は一人ぼっちになってイエスのみあとに従いゆく道を歩み始めた。イエスが先導者であることだけが、私の唯一の力であり、寄り頼みであり、慰めである。」と。(溝口様発行「復活103号」)
パウロは、御霊に促されてエルサレムへ向かった。そこには、投獄と苦難が待ち受けているが、霊の導きにより、福音を伝えるためには、命をも惜しまない!と言う熱い思い、突き動かされる力を与えられました。エフェソから呼び出した長老たちを前に、私が今までして来たように、「受けるより与える方が幸い」の言葉を紹介し、励まされた。今後2度と私の言葉を見ることはない!と言われたパウロの言葉を思い出し、皆激しくなきパウロとの別れを惜しみ、船を見送りました。
 私達の目標は、近くに住む人たちを自分のように愛することです。周りの人たちに、時間を捧げ、エネルギー(体力)を捧げ、経済的なものを捧げ、温かな言葉を交わし(電話、ハガキ、交信、訪問するなど)、パウロのように隣人愛の具体的な行動を通し、人々に仕えることと思います。
■むすびとして
 「福音の証しができれば、命が欲しいとは思わない」と言い切るパウロの福音は、命に等しい、否、それ以上のものです。罪深い私が、今、命があるのは、イエスが死んでくださり、地上33歳の生涯を終えられた福音があるからです。イエスが語られた御言葉、為された御業、奇跡、一つ一つを思い出しながら信仰生活を送りたいと思います。