コリントの信徒への手紙Ⅰ5:1-13             2021.1.21

西澤 正文

テーマ:純粋で真実のパンで過越し祭を祝おう(8)

 コリントの町の雰囲気は咽喉をそれほど罪悪と思わなかった。しかしながら聖霊はこれを許さず、淫らな行いをする者を除いた。当時の教会の特徴で、パウロも戒められた。

 「こんなとこと(みだらな行い)をする者たちを自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」(2)

 パウロの考えははっきりしていました。キリストの体である教会はひとつの有機体で、その中に有害なものが混ざった時、これをとどめておくことは出来ない。もし、留めておけば、一見、愛の行為のように見えるが、留めれば益々その勢いを増し、教会を死に至らせてしまう。だから、キリスト者との交際を断つことが肝心です。「主の日に彼の霊が救われるため」(5)後々になり、そのことに気づき、悔い改めることを期待します。交際を断つのは悔い改めの機会を提供するという考えです。

 パウロはそれよりも「パン種の入っていない、純潔で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」と奨励します。旧約時代、エジプトから脱出する時、イスラエルの民

 

は、神の命令により各家に、子羊の血を門柱と鴨居に塗った。神はこの血を見てその戸口を通過し、裁きはエジプト人の家々の初子だけに及んだ。神の裁きを逃れ殺されなかった。

 新約時代の今、イエスの十字架上で流された血を思い起こす過越祭として引き継がれています。イエスキリストを信じる私達にとり、イエスの流された血は救いの象徴、御恵そのものです。イエスの犠牲によって一方的に私たちの罪が赦されたことをしっかり心に刻みたい。

▢まとめとして

 私達の信仰生活の基盤は、「私はイエスの血によって救われた」と言う恵みです。イエスの十字架上の死がなければ、いつまでも古いパン種が残り、自分の小さな力を頼りもがき苦しむばかりです。欲望と罪を犯し続ける生活が続きます。イエスの恵みであります新しいパン種をしっかりと受け入れたいです。