コリントの信徒への手紙Ⅰ 1:1-31         2017.3.26
テーマ:ひとつになりなさい
・「神の御心によって」(1)は、パウロが使徒となった証である。パウロは、自身の決心や学識、他人の勧め等でなく、

 あくまでも神の意思により選ばれた。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエスキリストと、神により使徒とさ

 れたパウロから」、このガラテヤ書の冒頭のあいさつと同様、パウロが使徒として神に遣わされた者として自己紹介す

 る。
・1章の主題は「教会の一致の勧め」である。「わたしはパウロに、アポロに、ケファ(ペトロ)に、キリストに、つく」

 と、言い合わず、一致するよう勧めている。パウロ、アポロ、ケファ(ペトロ)の使徒たちをキリスト・イエスと同列す

 ることは、誤りである。使徒はあくまでキリスト・イエス、神へ導く仲介者である。「人を見ず神を見よ」である。教会

 内の中心的指導者に目を奪われてしまい、いつの間にか、その人が神のような存在となり、人間崇拝にないよう戒める。
・「言葉の知恵によらない」(17節)は、ここに登場する中心的指導者・アポロが、言葉と知恵に優れた人であり、アポ

 ロを意識した言葉である。アポロの雄弁と知恵とは、ギリシヤ人の心を捉えた。併し、言葉、知恵は、肉に属するもので

 霊のものではない。福音のみが霊である。知恵はギリシヤ人の誇りであり、多くの哲学者を輩出したのもその為である。

 特にコリントは、学術の盛な都市であり、尚更知恵を重んじた。その中にあり、パウロは、言葉の知恵を用いず、福音を

 宣伝えるのが自身の使命であると信じた。福音はキリストの十字架により救われるのであって、知恵ではない。言葉の知

 恵を用いて人を説得しようとすれば、十字架は無用となってしまう。パウロを始め、アポロ、ケファなどの使徒の勤め

 は、洗礼を授けるのではなく、福音を述べ伝える事。このことに専心すれば、信徒間の仲たがいはないと信じた。「十字

 架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなもの」(18節)とは、キリストが十字架に上り、私たちの罪を買い取り、

 身代わりとなり死んでくださったことにより、私たちの罪は赦され救われたこの事実は、私たちの行為によってではな

 く、信仰により救われることを教えている。(ロマ3:25-28) これを理性で、頭で理解しようとした場合、説明の難し

 さに直面する。あくまでも自分の力で、理性で考えてしまえば、愚なものに見える。イエスの足跡の事実を只信じ、受け

 入れることである。理論とか理屈でなく信じること、単純に信じること、これである。聖霊の助けにより理解できると信

 じる。「神は霊である」(ヨハネ4:24)
・「宣教と言う愚かな手段」(21節)とは、愚に見える十字架の福音を述べ伝えることにで、信ずる者、(理解する者で

 なく、唯単純に信ずる者)を救う事が、神の御旨である。理性よりも信仰、理解よりも救済、知恵よりも愚な福音の伝達

 が、返って神と人を真の関係を築く。この信仰により、救われる状態こそ、人が神の御前で採るべき唯一の態度である。

 この態度だけが、神の御旨に叶うもので、神が人間の理性を制限し、唯信仰により救われることは、神の知恵である。頭

 で理解する事でなく、信仰によりただ信じることが神の唯一のみ旨、願いである。
▢まとめとして
・私たちは、伝道者は、神、イエスキリストへ導く案内人であることを忘れず、御言葉を学びつつ、神を賛美し、感謝の

 りを捧げて歩んでいきたい。神に直結した信仰生活をしたい。人間崇拝でなく、ただ神、キリストと共に生きたい。キリ

 ストにある兄弟姉妹とは、励まし合い、祈り合う仲でありたい。人間は見えるもの(目の前の先生)に心奪われやすい弱

 い者の自覚が必要だ。「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去ります

 が、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントⅡ 4:18P330)