何の権威でするのか
                                   -マタイによる福音書21:23-46より-  2015.10.25
 イエスはエルサレムに入城し(マタイ:21:10)、いよいよ十字架に架かることが目前となる。それに合わせてイエスは、神殿の境内で祭司、長老達に対し、対決姿勢を鮮明とし、イエスが話される矛先、対象は全て祭司、長老となる。イエスは、これらの人達は外見、形式にこだわり、実質が伴わない姿勢を糾弾し続ける。
 イエスは神殿の境内に入り、金儲けをしていた商人たちを追い出し、身体に障害のある人たちを癒し、群衆を前に教える。これを見ていた祭司長や民の長老は、イエスに向かい「何の権威でしている、だれがその権威を与えたのか」と質問した。どうしてそのような質問をするのだろうか。それは、群衆に神の事、聖書の事を教えることは、自分たちの特権、専売特許と考えていた。それなのに今、目の前で、イエスが教えているのを見て、内心面白くなかったのである。
 イエスは、彼らの質問には即座に答えず、イエス自ら彼らに質問した。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか、天から、人からのものか」と。彼らは、答えに困った。もし「天から」と言えば、なぜヨハネを信じなかったのか、と言われ、「人から」と言えば、ヨハネを預言者と信じている群衆を前に怖くて言えなくなり、「わからない」と答えるのが精一杯であった。そこでイエスははっきりと、「それならわたしも言わない」と答えた。
 権威(英語: Authority)とは、自発的に同意したり、服従を促す能力や関係であったりを意味する。代名詞的に、特定の分野などに精通して専門的な知識を有する人などをいうこともある。今日的表現の「オーラのある人」(人間の存在感や風格の備わった人)である。
 私の体験を言えば、信仰の指導者の大先輩の指示は、拒否できず、素直に「はい、解りました」と言わざるを得ないことがしばしばあった。その人の発言は、私自身の将来や色々なことを考えた上のことで、その人から依頼されれば従わざるを得ない、ある種の服従を促すような関係があり、従えば間違いはない信頼があった。
イエスは、数日後には殺される運命が待ち受けていることが分かっていたため、敢えて正面から祭司、長老達の質問には答えなかった。それはもう少し、弟子に、民衆に、祭司たちに語る必要があると考えていたからである。
「そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」(マタイ21:27)
むすびとして
 イエスは、死を目前とし、イエスの命令に従うか、祭司、長老のように自己を顧みず、伝統、形式を重んじるか、その選択を弟子、群衆に迫る。そして、我々にも迫る。柔軟な心、純粋な心がなければ、イエスの呼びかけが耳に届かず、また、イエスの姿が見えず、イエスに従うことが出来ない。祭司長達のように外側・外見だけを重んじ、実行を伴わない組織、制度を重んじる者は、まわりの世界が見えない。
 広い空を仰ぐのか、狭く出口のない腹を見るか‥‥。今は秋、空が高く、優しい青空が 広がる。信仰は信じ仰ぐことであり、広い空を仰ぎ、常にイエス・キリストに従って歩んでいきたい。