マルコによる福音書2章18-27       2021.8.8

   西澤 正文

 イエスと律法学者、ファリサイ人との問答が続きます。律法学者・ファリサイ人は、イエスが受け入れられず、旧約時代の律法を徹底して守ろうとします。決まり事、制度を徹底して守り、制度の枠の外にはみ出さない様に注意をしながら生活し、はみ出た人を咎め、制度により罰します。 

 一方のイエスは、律法の中の生活では、罪が示されるのみであり、いくら徹底して律法を守っても、救いにいたらず、救いは得られず、救い主・イエスを信じる信仰により救われる新しい生活をせよと奨励します。

 安息日にイエスの弟子たちが麦の穂を摘む様子を見たファリサイ派の人たちから、イエスに質問が出されました。「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」(24)と。

 申命記に「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」(23:25)に書かれています。この場合、安息日に働くことが問題となりました。安息日にこだわるのは、神が仕事を離れ安息なさった日だからです。「天地万物は完成された。第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」(創世記2:1-2)「安息日を心に留め,これを聖別せよ。」(出エジプト20:8)

 律法学者、ファリサイ人の考え、価値観は、違法か合法化 律法を守っているか、守っていないか、に終始しています。一方、イエスは、人間がどのように神の前に正しく生きていくかを教えられます。律法は神の前に正しく生きていくためどのようなことをしなければならないか、その道筋を示します。   イスラエルの人は、律法を守ることのみに一生懸命でした。滑稽に思われる程迄に厳

 

 

格に律法を守りました。律法の虜になってしまいました。 

 しかし、イエスの到来は、その世界を逆転させるものでした。もはや、神の前に正しくなろうとする必要はなくなったのです。神はすべての人を赦されました。今のままで受け入れてくださいました。「疲れた者、重荷を負う者、私のもとに来なさい、休ませてあげよう」と。

 このことは何を意味しているのでしょうか。人間の努力により律法を守ることで義とせられる世界をひっくり返す世界が到来したことです。人間が努力することなく、神が一方的に罪を赦してくださる世界の到来です。今まで大事なものがつまらないものとなり、つまらないものが大事になる世界が実現した。右に見えていたものが左に見え、左に見えていたものが右に見えるようになりました。真に「心の貧しいい人は幸いなり」の世界がやってきました。

 そもそも人間にとって、律法が主役でなく、人間が主役です。今の環境で、私たち人間にとって、正しい法か、悪い法か、イエスを信じる者にとり、イエスの御旨に適ったものかどうかが大切です。                                                                                                                                                                                                                                                       ▢まとめとして 

 イエスは短い生涯で福音伝道された期間は、3年に満たなかったです。その間、何時、どこで、どのような状況の中で、誰に、どのような教えを語られたのか、そのことをこれから一つ一つ学び、心に刻むこと、これが私たちキリスト者の信じる御言葉、歩んで行く道です。この道が天国行の道です。ある姉妹が「けんかしている暇はない、時間がもったいないです。神様ことを思っていたい。」 イエスが語られた言葉は、私たち一人一人に語られた言葉です。毎週の主日礼拝を大切に守っていきましょう。