秋・下伊那集会を訪ねて-マタイと山上の説教-

西澤正文(静岡県)

・はじめに

 今年も、下伊那集会に訪問できたことを嬉しく思う。毎年春の訪問であったが、今年初めて秋の訪問となった。松川町はフルーツの産地として有名で、丁度訪問の季節はリンゴの収穫最盛期であった。松川インターから会場である松下道子宅までは、リンゴ園が並び、沿道には何本もののぼり旗があちこちに立ち、町のお祭りのようであった。

マタイによる福音書の著者は、確定していないようであるは、ここでは、マタイとして、山上の説教の示されたところを学んだ。

・心の貧しい人々

 聖書を読み始めた頃、「心の貧しい人々は、幸いである」の意味が分からず、何を馬鹿なことを言っているのか、このような印象しか持てなかった。それが徐々に理解できるようになった。この世の幸せと言えば、金、地位・名声、学歴、健康、ルックス・スタイル等であろう。この内の一つでも、二つでも自分にあれば、それを頼りとし、自信をもち、幸せな生活が送れる。しかしイエスがここで言う心の貧しい人とは、頼るもの、誇るものが何もない人々を幸せ者という。金も、地位も、学歴も、健康な体も何もない者を「幸いである」という。このような人は、謙遜になり、神の前に首を垂れることのできると賞賛するのである。いずれ人はこの世を去り、天国行きを目指すが、天国の門は、この世の価値である金、地位などは、一切持込禁止区域、手ぶらでなければくぐれないのである。入れる人は、「心の貧しい人」だけである。誇るものは何もありませんという謙遜だけが認められるところである。

・マタイという人物

マタイは、12弟子のひとりで、自身を紹介するのに自分一人だけ「徴税人、マタイ」と敢えて職業を記した。徴税人という職業は、当時のユダヤの社会では、嫌われた職業の最右翼であった。民衆に過酷に課税し、徹底的に徴収し、自国のみでなく、宗主国であるローマ帝国の税をも徴収し、治め、帝国に媚びるいやらしい人物とみられていた。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。」(マタイ5:46)このイエスの言葉で、当時の徴税人が蔑視されていたかがわかる。このマタイが、「わたしに従ってきなさい」と声をかけられ、声掛けに飛びつき、多額の収入の職業も、孤独で寂しく悲哀に満ちた過去の生活に見切りをつけたのである。人には言えない辛い職業、まともに相手にされず、それ以上に職業上虚勢を張って傲慢にふるまった過去の姿を思いだし、常に謙遜な心を忘れずにいたいとの思いから、「徴税人マタイ」の紹介にこだわったであろう。

・悲しむ人々

「悲しむ人々は、幸いである」このイエスの教えも、当初よくわからず悩まされた。悲しむ人がどうして幸せなのか、馬鹿にしているのでは‥‥、そのような思いであった。この世の悲しみは、家族、友人などの死、離婚、失恋、病気、失業、「うつ病」など心の病、不登校、いじめ、DV、幼児虐待等などがある。しかしこのような悲しみは外からやって来る。人間として本当に悲しむべきことは、心の中にある悲しみである。不真実な態度、罪、弱さ、嫉妬、強がりなどである。イエスは、自分の心の醜さに気づき、悲しむ人が幸いというのである。自分の心の中をのぞくと、人に言えない醜さが渦巻き、救われないと思い悲しむ人、その人が幸いであると讃えるのである。悲しんでいる人は、既にイエスの祝福の中にいて、自分自身の心の底に潜む罪、醜さに気づかない人は、神の祝福に入れないのである。

・むすび

「喜びが集まったよりも、悲しみが集まった方が、幸せに近いような気がする」 大学卒業後教員になった年、首から下が全身マヒとなり、以来車いす生活となった星野富弘氏の詩である。筆に表すことのできない深い悲しみを背負った星野氏本人の詩故に、イエスの説教と同じほどに、今私の心に響いてくる。

山上の説教は、敢えて実行不可能な教えを弟子に、群衆に、そして我々に語り、常に人間の弱さ、限界を忘れてはいけないと警告する。同時に、日々の生活の中に即適用しなさい、と勧めている。適応できないようであれば、神、イエスの前に出て、祈るのみである。

 


感想

・静かなひと時、皆様の輪の中に加えていただき、孫ともども参加できたこと感謝です。

(何処原弓絃)

・この世と天国の価値観が違うことが分かりました。自分の心の在り方について、常に立ち止まり、振り返りつつ生活することが大切であると教えられ、そのように生活していきたいと思う。(原田華子)

・教会に通っている者ですが、教会の中では最年長です。教会と違って心に染み入る話が聞けて良かった。最近テレビ等で「ふるさと納税」について見聞きすることがよくありますが、寄付の金額を増やそうと躍起になっていて、寄付した人にその見返りとしての品物を大々的に宣伝し、物で誘導するやり方がいやで仕方ありません。(押尾時子)

・「貧しい人は幸いなり」のお話、昔、熱心にお話を聞いたことがありましたが、今そのことを思い出しました。昔マタイを学び、今日またマタイのお話をお聴きでき嬉しいです。マタイが私のところに来てくれたようです。(前島浩子)

・今日の学びの中で「悲しむ人は幸い」の箇所が、最も心に響きました。心の中の悲しみは、本当の悲しみであり、最も深い悲しみであると思う。自分自身の心の在り方を思うと、どうしようもない。心の中は、中々変えられない。聖書を読んだり、祈ったりしながらいつの間にかわかってくると思うし、そう信じたい。聖書の中に答えがあり、祈りの中で神に通じている、そう信じています。(関 真理子)

・正直なところまだ信じていません。でも両親みていると「よくやっているな」と思っています。よう仕事が休みでしたので運転を買って出て一緒に来ました。神の導きかな‥‥。人生は何があるかわからない。こういうこと学べてよかった。(関 真那)

・(祈りより)娘、孫、友人が、また友人のお孫さんまでも来てくださり、和やかな集会を持てましたこと感謝いたします。御言葉を与えられ、今後も益々神様により頼んで生活したいと切に祈ります。いつも、いつも、神様に支えられ感謝です。衣、食を与えてくださり感謝です。(松下道子)