15章1-41      12.8   

西澤 正文 

テーマ:神は異邦人にも聖霊を与え彼らをも受け入れられた(8)

  15章は、エルサレムで開催された使徒会議の内容で、第1次、第2次の伝道旅行の間で決定された重大なものです。 

救いに割礼が必要かどうか、条件が必要か必要でないかの問題で、律法対福音、ユダヤ主義的キリスト教対異邦人キリスト教、の問題に関する重要な分岐点でした。 

パウロたちの教えと真っ向から対立する「モーセの習慣に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」(1)と言う人が現れました。この考えは、回心前のパウロの考えと同じです。この教えの違いを教会の役員である使徒や長老たちと協議するため、パウロとバルナバが、エルサレムに向かったのです。 

エルサレムに向かう途上で、パウロたちは、「道すがら」(3)異邦人たちが律法を遵守するユダヤ主義的キリスト教から純粋にただイエスを救い主とするキリスト教に改宗したことを伝えながらエルサレムへ向かいました。二人が如何に伝道熱心であるのか、この様子を見てもよく分かります。パウロたちが伝道する姿を想像するだけで感銘を受けます。 

エルサレム会議中、ペトロは、百卒長コリネリウスとの出会いの体験を語ります。ペトロが幻について考えこんでいる時、霊がペトロに「立って下に行き、ためらわないで(百人隊長から遣わされた3人と)一緒に出発しなさい。私があの者たちをよこしたのだ。」と語ったのです。私に与えてくださったように異邦人にも聖霊が与

 

 

 

えられ(10:44)、ペトロがなおも話し続けていると、一同の上に聖霊が降った体験を披露しました。

  このペトロの体験は、何を示しているのでしょうか? 神は、ユダヤ人も異邦人も差別なく、すべての人を清められるということです。それなのに、なぜまだ「先祖も私たちも追い切れなかった軛=律法」を、異邦人に守らせようとするのでしょうか。恵みによる救いは、ユダヤ人、異邦人の違いはなく、どんな人にも受けられるのです。天地万物を創造された神は、差別せずすべての人を対象に救われます。異邦人に聖霊が降り、救いの恵みに預かることができたこと、この救いの業を目の当たりにしたペトロの貴い体験は、何物にも代えることのできない真実でした。その貴い体験を会議に集まった人たちへ説明されたことにより使徒会議は混乱なく終えることが出来たのです。体験の弁明程、人々を納得させるものはありません。 

■むすびとして 

 ペテロの弁明(6-11)は、人間の視点、考えでなく、あくまでも、神が為さった御業、私たちに何を語られたかを話されました。私たちも、ペトロ、百人隊長コルネリウスのように、人間の思いでなく、神が私たちに何を語られているのか、を求めていきたい。そのためにも静かな祈りの時間、神の御声をお聴きする静聴の時間を確保できる信仰生活を送りたいです。